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更新日:2024年5月22日

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学校に眠る遺跡(富田林高等学校、谷川遺跡)

大阪府立富田林高等学校と谷川遺跡

大阪府立富田林高等学校は、明治34年(1901)に、現在の場所で大阪府立第八中学校として開校しました。

以来、同年6月には大阪府富田林中学校、昭和23年(1948)には大阪府立富田林高等学校と改称される等して、114年の歴史を経ていますが、近年に至るまで、そこに遺跡が眠っていることは知られていませんでした。

【図】たにがわいせきいちず
谷川遺跡位置図

平成4年(1992)に、大阪府立富田林高等学校改築工事を計画した大阪府教育委員会では、工事予定地が「東高野街道」に面し、富田林寺内町遺跡や甲田遺跡にも近接するため、埋蔵文化財の有無を確認するための試掘調査を実施することにしました。

同年8月、改築工事予定地内に4か所の試掘トレンチが設定され、調査されると、中世から近世にかけての遺構や遺物が発見されました。新規発見の遺跡は所在地の地名をとって、谷川遺跡と命名されました。

改築工事は、昭和12年(1937)に改築された学舎をそのまま利用しながら、新しい校舎を建設し、その後、古い学舎を撤去する方式で行われることになりました。

平成6年(1994)、谷川遺跡の発掘調査が開始されました。まず、設備迂回工事部分を調査し、その後、校舎棟部分、体育館部分を調査し、調査面積は、計5,641平方メートルに及びました。

調査の効率化を図るため、遺構の実測は写真測量により行いました。

写真撮影は通常はヘリコプターやレッカーを使用するのですが、調査区が学校内であるため、騒音・防塵対策が必要であり、また、レッカーを設置する場所もなかったため、バルーンを使うという特別な方法で撮影を行いました。

調査成果は、常に学校に最新の情報を提供し続け、安全対策に配慮しながら現場も公開し続けました。

調査の最終段階で、「古墳時代後期の宮殿クラスの建物跡」が検出されたので、平成7年(1995)2月、報道各社に資料提供し、現地説明会を開催しました。約400名の府民の方々に発見された遺構や遺物を見て頂き、同年3月、調査を終了しました。

【写真】しくつちょうさのようす
試掘調査状況(南西から)

【写真】げんちけんがくかいのようす
現地見学会

学校を掘る

谷川遺跡は、標高約62メートルの段丘の上に立地し、遺跡の範囲は、富田林高等学校を中心に、東西200メートル、南北150メートルと判明しています。

平成6年(1994)の発掘調査で、旧石器時代から中世に及ぶ各時代の遺構と遺物が発見されました。

旧石器時代や縄文時代では、ナイフ形石器(ないふがたせっき)や木葉形尖頭器(もくようけいせんとうき)、石鏃(せきぞく)などの石器類が出土し、縄文時代前期や後期の土器も出土したので、近くにキャンプ地や集落跡が存在していたことが推測されます。

【写真】サヌカイト製もくようけいせんとうき
サヌカイト製木葉形尖頭器(もくようけいせんとうき)

弥生時代では、後期の土器が出土し、竪穴住居跡や方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)などの遺構が検出され、集落跡であったことが判明しました。

古墳時代では、後期の須恵器や土師器が出土し、柵列を伴う掘立柱建物跡群(ほったてばしらたてものぐん)や竪穴住居跡・大溝など多くの遺構が検出され、大集落であったことが判明しました。掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)の中で最大の一棟は、梁間(はりま)2間桁行(けたゆき)8間の建物で、西側に庇・軒・溝があります。東西7.2メートル南北15.7メートル、面積113平方メートルの大規模なもので、柱の太さは30センチメートル、柱穴の大きさは一辺80センチメートルから100センチメートル、深さは60センチメートルから80センチメートルありました。このような大型片面庇建物(おおがたかためんびさしたてもの)は、極めて珍しいもので、過去には奈良県桜井市内で2例が検出されているのみで、宮殿クラスの建物と推測されます。

また、従来から、今回の調査地である「南河内郡川西村大字甲田(おおあざこうだ)」は、その地名を根拠に『日本書紀』敏達天皇12年条に登場する「下百済(しもつくだら)河田村」と推定されてきましたが、今回、その時期の集落跡が検出されたことにより、一層、その可能性が高くなったと考えられます。古墳時代後期の柵列を伴う掘立柱建物跡群(ほったてばしらたてものぐん)の西側には、小規模な竪穴住居跡群があり、そのさらに西側には、幅4メートルもある大溝が検出されました。

この大溝の埋土下層では、古墳時代後期や奈良・平安時代の土器が出土し、埋土上層(まいどじょうそう)では、鎌倉時代の土器が出土したため、この大溝は長期間使用され続けていたことが分りました。

この大溝は、固い段丘礫層(だんきゅうれきそう)を深く掘り下げたもので、灌漑用水路と考えられます。この大溝の西方130メートルには、現在、「深溝井路(ふこうどいろ)」と呼ばれている幅1メートル程の水路があり、石川の「深溝井堰(ふこうどいぜき)」から取った水を段丘崖に沿って、南から北に水を引いているもので、発見された大溝と形状がたいへん良く似ているので、「深溝井路(ふこうどいろ)」の前身がこの大溝ではないかと推測されます。

奈良時代では、溝や竪穴住居跡、胞衣壺(えなつぼ)かと推定される土器を出土した土坑(どこう)などが検出されましたが、集落としては縮小していきます。また、飛鳥・白鳳・平安時代の平瓦片(へん)も固まって出土したので、調査地の字名が「谷毛寺(やもじ)」であることから、この地に寺院があったことも推定されます。

平安時代末期以降鎌倉時代では、掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)や井戸が検出されましたが、鋤溝(すきみぞ)も多数検出されたことから、だんだんと集落から水田地帯に変っていたことがわかります。

そして江戸時代には、一面の水田になっていたことが、明治時代の地図からも推測されます。

【写真】はっけんされたほったてばしらたてものぐんぜんけい(たいいくかんぶぶん)
掘立柱建物群(ほったてばしらたてものぐん))全景(体育館部分)

【写真】はっけんされたおおみぞぜんけい
大溝全景(北から)

【写真】げんざいのふこうろいろ
現代の深溝井路

印刷用はこちらから→谷川遺跡(PDF:671KB)

地図

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