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中野北遺跡
- 遺跡:中野北遺跡(なかのきたいせき)
- 所在地:富田林市宮町
- 種類:集落跡
- 時代:弥生・古墳・中世・近世
- 調査期間:令和元年7月から令和2年1月まで
- 主な遺構:竪穴住居、土坑など
- 主な遺物:土師器(はじき)、須恵器(すえき)
中野北遺跡の概要
中野北遺跡は、粟ヶ池(あわがいけ)を取り囲む範囲に広がる弥生時代から近世にかけての遺跡です。
粟ヶ池は、石川西岸の河岸段丘の開析谷を堰き止めて造られた南河内を代表する灌漑用のため池です。その築造の時期は諸説あり、『古事記』・『日本書紀』に見られる丸爾池(和珥池)(わにいけ)とし、古墳時代に築造されたという説や、これまでの周辺遺跡の発掘調査の成果から奈良時代には築造されていたという見解もありますが、いまだにはっきりとした結論は出ていません。
過去にはこの粟ヶ池の東岸で、大阪府教育委員会によって2回に渡り調査が行われており、古墳時代から奈良時代の遺構や、中世から現代に至るまでの池を堰き止めた堤を確認しています。これらの成果から、この粟ヶ池が中世までさかのぼることは確実であると考えられます。
図 中野北遺跡調査区位置図
今回の調査成果
今年度の大阪府教育委員会の調査では、近鉄長野線の高架化工事に伴い、粟ヶ池の西岸にあたる部分を約300mに渡って発掘調査を行い、古墳時代終わり頃(6世紀末)の竪穴住居などの遺構や、中世から近世の池岸、弥生時代から近世にかけての遺物を確認し、この地が長きにわたり使われていたことがわかりました。
一番北端の調査区1区(写真1)では、数面にわたる中世から近世・近代の耕作土の下で、現地表面から1.8mほど下がったところから、古墳時代の終わり頃(6世紀末)の竪穴住居(写真2)及び数基の土坑を確認しました。竪穴住居は、一辺が約5mの長さで、東側にカマドをもつ構造であることがわかりました。カマドからは小さな壺が逆さに据えられて出土するなど(写真3)、当時の様相を残すものでした。住居内や周辺の遺構からは須恵器の坏(つき)や土師器甕なども多数出土しています。
そのほか今回の発掘調査の成果から、この地は中世から鉄道が開通するまでの明治時代まで耕作地として利用されていたことがわかりました。また調査区1区から4区、6区では、池の埋土と考えられる堆積を確認し、所々に池の護岸の様子が見られました(写真4)。出土した遺物から、中世の段階には現在の粟ヶ池とおおむね同じ位置にその岸があったと推定されます。
今回の調査では、堤のような粟ヶ池の築造にかかわる成果は得られなかったものの、古墳時代における当地域での集落の広がりや、中世以降の粟ヶ池の様子を確認することができました。
写真1 中野北遺跡調査区(1区)北から |
写真2 中野北遺跡竪穴住居 |
写真3 中野北遺跡竪穴住居内カマド |
写真4 中野北遺跡の池護岸跡 |