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更新日:2024年5月22日

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学校に眠る遺跡(八尾北高等学校、萱振遺跡(かやふりいせき))

八尾北高等学校と萱振遺跡(かやふりいせき)

八尾北高等学校は、大阪府立第146高等学校(仮称)として、昭和56年(1981)に大阪府議会で設立が議決されました。

昭和57年(1982)に八尾北高等学校と名称が決定し、昭和58年(1983)には、八尾市柏村町の旧八尾市立清友(せいゆう)高等学校跡の仮校舎において授業を開始しました。

その間、八尾市萱振町(かやふりちょう)7丁目に用地を取得し、本校舎の建設を計画しました。

ところが、校舎建設に先立って埋蔵文化財の試掘調査が昭和57年(1982)12月に実施されると、溝や柱穴・足跡などの遺構が検出され、多数の弥生土器も出土したことから、遺跡の存在が明らかとなりました。

新規発見された遺跡は、萱振遺跡(かやふりいせき)と命名され、急遽、発掘調査が昭和58年(1983)から昭和62年(1987)まで実施されました。

【図】萱振遺跡(かやふりいせき)位置図
萱振遺跡(かやふりいせき)位置図

学校を掘る

萱振遺跡(かやふりいせき)は、八尾市萱振町(かやふりちょう)に所在する集落跡です。

標高約6メートルの沖積地上に立地し、遺跡の範囲は、八尾北高等学校が北端で、東西970メートル南北1340メートルです。

昭和58年(1983)から昭和62年(1987)に行われた発掘調査で、縄文時代から中世に及ぶ各時代の遺構と遺物が発見されました。

この時の調査では、弥生時代前期の自然河川中から磨滅した弥生土器と縄文時代晩期の土器の欠けらが少量出土しましたが、遺構はありませんでした。

上流の遺跡から流されてきたものと思われます。

八尾北高等学校の地に人々の生活のあとが認められるのは、弥生時代中期からです。水田跡が検出され、畦畔(けいはん)と多数の人の足跡が検出されました。

弥生時代後期になると、住居跡・井戸・土坑(どこう)・溝が検出され、人々がこの地に住み始めたことが窺えます。

住居跡は17棟確認されましたが、掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)ばかりなのが特徴で、一部の柱穴には、径15センチメートルほどの柱が残っていました。

溝からは、多量の完形を含む弥生時代後期の土器が出土し、当時は大変な貴重品であった銅剣や銅鏡も出土しました。

古墳時代初頭には方形周溝墓群(ほうけいしゅうこうぼぐん)や井戸・大溝が検出され、この地は墓域となっています。

方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)は、4基検出され、一辺11メートルから17メートルのものでした。

マウンドは削られていて、埋葬主体部は残っていませんでしたが、唯一、周溝(しゅうこう)の外側で組み合せ式木棺墓(もっかんぼ)が検出されました。

古墳時代前期では、萱振1号墳(かやふりいちごうふん)と命名された古墳が検出されました。

一辺約27メートルの方墳で、幅約5メートルの浅い周濠(しゅうごう)を伴っています。

【写真】かやふりいちごうふんのぜんけい(ふしていしせき)
萱振1号墳(かやふりいちごうふん)(府指定史跡)全景

埋葬主体部は後世に削られていて、残ってはいませんでしたが、墳丘(ふんきゅう)の一段目のテラスには、朝顔形埴輪と鰭付(ひれつき)円筒埴輪が0.8メートルから1メートルの間隔で並べられていました。

周濠(しゅうごう)からは、靫(ゆき)・家・盾・甲冑・蓋(きぬがさ)などの形象埴輪が多数出土しました。

靫形埴輪(ゆきがたはにわ)は、復元すると高さ1.8メートルになり、これは日本最大のもので、とても優美なものです。

古墳時代中期・後期から飛鳥時代(あすかじだい)にかけては、多少土器が出土するものの目立った遺構は認められません。

しかし奈良時代になると、主軸を東西南北に合わせた建物跡が10棟以上も検出され、人々が再びこの地で活動を始めます。

倉庫を含む建物群の中心付近に、井戸が1基検出されました。

それは井戸枠に刳船(くりぶね)を転用した珍しいものでした。

平安時代には顕著な遺構は認められませんが、鎌倉時代になると38基に及ぶ井戸や条里(じょうり)遺構と考えられる大溝や多数の柱穴などが検出され、大きな集落のあったことが分りました。

井戸の中には、曲物(まげもの)を井戸枠に使用したものや、上部を板材や竹で囲うもの、近くの西郡廃寺から運んだと考えられる瓦を積み上げたものなど様々な種類のものがありました。

室町時代以降は、遺物もほとんど出土せず、水田・畑など耕作地に変っていた様子です。

萱振1号墳(かやふりいちごうふん)

昭和58年(1983)6月、萱振(かやふり)遺跡の発掘調査が始まりました。

周囲の田圃より一段高い畑の表土をバックホウで掘り始めた考古学技師は、表土の下からいきなり円筒埴輪が3つほど一列に並んで出てきて、「どうやらこれは古墳らしい」と分った時、身ぶるいするほど興奮したそうです。

すぐに手掘り作業に切り替えて、表土をはぎとったところ、古墳の形は方形で、北側と西側には10数本の円筒埴輪が並んでいることも分りました。

普通、古墳と言えば、丘陵や山の上から見つかることが多く、河内平野のような低地での発見例は、当時、極めて少なかったことから、「まさか、いきなり、表土の下から古墳が出てくるとは」、と非常に驚いたそうです。

その後、河内平野でも、続々と古墳が見つかり、現在では270基ほど見つかっています。そのほとんどは、沖積地にあって、土砂や粘土で埋まっているので、埋没小古墳と呼ばれたりしています。

確かに、河内平野で発見される古墳は、いずれも小さく、大きいものでは、大阪市にある径約55メートルの塚ノ本(つかのもと)古墳(円墳)や同じく径約47メートルの一ヶ塚(いちがづか)古墳(円墳)、八尾市にある径約33メートルの中田(なかた)古墳(円墳)、守口市にある全長約30メートルの梶2号墳(かじにごうふん)(帆立貝式古墳)などがある程度です。

河内平野で発見される古墳のほとんどは小方墳(しょうほうふん)で、萱振1号墳(かやふりいちごうふん)が一辺約27メートルと最大です。なお、最小のものは、大阪市城山遺跡で一辺3メートルの方墳(ほうふん)が2基発見されています。

萱振1号墳(かやふりいちごうふん)の特徴は、何と言っても埴輪にあります。

【写真】かやふりいちごうふんからしゅつどしたひれつきえんとうはにわ
萱振1号墳(かやふりいちごうふん)出土鰭付円筒埴輪

105センチメートルの鰭付円筒埴輪や朝顔形埴輪がずらっと並び、丹塗り(にぬり)の靫形(ゆきがた)埴輪をはじめ、高床式入母屋造(いりもやづくり)や切妻造(きりづまづくり)の家形埴輪・盾・甲冑・蓋(きぬがさ)形の埴輪などの形象(けいしょう)埴輪が多数並べられていたと考えられています。

もちろん、これらの精巧に薄く作られた埴輪は、熟練の専門工人達の手によるもので、萱振遺跡(かやふりいせき)で作られたものではありません。

埴輪が作られたのは、萱振遺跡(かやふりいせき)の8キロメートルほど南にある藤井寺市「土師里(はじのさと)」です。

そこでは、埴輪作り集団である土師部(はじべ)がいて、巨大前方後円墳用に、組織的に埴輪を作っていたことが分っています。

萱振1号墳(かやふりいちごうふん)発掘当初も墳丘(ふんきゅう)規模に対し、埴輪があまりにりっぱなことから、そのギャップに調査担当者一同も首をかしげたものだったのですが、その後の発掘諸例を見てみると、逆に、小規模な古墳であってもりっぱな埴輪を入手できると考えられるようになりました。

つまり、土師里(はじのさと)の埴輪工房では、巨大古墳用の大きな仕事をメインに行なっているのですが、小古墳にも対応してくれる、そんな組織であったのかなと考える訳です。死者のために古墳を作りたい、埴輪を並べたいという依頼者の求めには、真摯に対応してくれる、そんな組織だったのかなと考える訳です。

そう考えると、萱振1号墳(かやふりいちごうふん)の南西1.1キロメートルに発見された八尾市美園(みその)古墳は、一辺7メートルの方墳(ほうふん)ですが、多数の壺形(つぼがた)埴輪と共に重要文化財に指定された精巧な家形(いえがた)埴輪が出土しました。

大阪市高廻り2号墳(たかまわりにごうふん)は径20メートルの円墳ですが、長さ128センチメートルのこれも重要文化財に指定された船形埴輪が出土した例も無事解釈できる訳です。

萱振1号墳(かやふりいちごうふん)は、古墳時代前期末の古墳ですが、その後の中期・後期になっても、河内平野の古墳には、土師里(はじのさと)を含めた南河内の埴輪が運ばれているので、その供給システムに変更はなかったもようです。

萱振1号墳(かやふりいちごうふん)は、河内平野で発見された方墳(ほうふん)の中では最大のもので、保存状況も良好だったことから、関係者の努力によって、現地で保存・復元されました。また、大阪府でも貴重な文化財であることから、古墳は府史跡、靫形(ゆきがた)埴輪は府有形文化財に指定されました。

【写真】げんちでふくげんされたかやふりいちごうふん
復元された萱振1号墳(かやふりいちごうふん)

【写真】かやふりいちごうふんからしゅつどしたゆきがたはにわ
萱振1号墳(かやふりいちごうふん)出土靫形(ゆきがた)埴輪

井戸枠に転用された古代船

河内平野では、その表層部分は、旧の大和川や淀川が運んできた砂・泥のため、井戸を掘っても、すぐに崩れてしまいます。

きれいな飲料水確保のためには、どうしても枠材が必要です。で、古代の人がどうしたかと言うと、廃船を利用しました。手順は、こうです。

まず、廃船となった大型の刳船(くりぶねの船首と船尾部分を切断します。その後、胴体部を2つに切ります。それを井戸用に掘った穴の中に抱き合わすように直立させ、縄で縛ったり、かすがいで止めた後、枠外をしっかりと土で埋めて、井戸の完成です。

廃船となった刳船(くりぶね)は、ほとんどが杉で作られているため、水に強い樹木の特性を良く知った上での転用と考えられます。

古代の河内平野では、現在までに、こうした刳船(くりぶね)を転用した井戸枠が12遺跡24例ほど見つかっています。

一方で、古代人がそうしたリサイクルを行なってくれた結果、古代の河内平野の中の潟湖や河川あるいは大阪湾を行き来していた船の姿が明らかになってきたのも事実です。

古墳時代前期から平安時代前期までの丸木船・準構造船(じゅんこうぞうせん)・川船など、多種類の船のあったことが分りました。

【写真】ふねざいをいどわくにてんようしたいど
船材を井戸枠に転用した井戸

【写真】いどをなんぶんにわったところ。いどのそこにいぶつがしゅつどしました。
井戸枠内遺物出土状況

印刷用はこちらから学校に眠る遺跡(八尾北高等学校、萱振遺跡)(PDF:872KB)

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