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陵東(みささぎひがし)遺跡
- 遺跡:陵東遺跡(みささぎひがしいせき)
- 所在地:羽曳野市島泉八丁目・藤井寺市恵美坂二丁目
- 時代:弥生から中世
- 調査期間:令和3年6月から11月
- 主な遺構:掘立柱建物、井戸、溝、耕作面(水田跡、畑地跡)
- 主な遺物:縄文土器、弥生土器、須恵器、土師器、瓦器、埴輪、石器、瓦
陵東遺跡の概要
陵東遺跡は、羽曳野市と藤井寺市にまたがる遺跡です。平成17年度に試掘調査を実施したところ円筒埴輪が出土し、また古墳時代の溝を検出したことから新たな埋蔵文化財包蔵地として周知した遺跡です。
文化財保護課では都市計画道路八尾富田林線の工事に伴って、令和2年度から発掘調査を行ってきました。令和3年度の調査では、古墳時代前期と後期の竪穴建物や掘立柱建物、それらに伴う水田や灌漑用水路が確認されています。
今回の発掘調査の成果
今回の発掘調査は南北に約120mの細長い調査区を2箇所に分けて調査しました。北側の調査区(N区)は羽曳野丘陵から延びる中位段丘面が大半を占めていますが、南西から北東にかけて地形は低くなっており、南北方向に走る大きな谷地形が存在することを追認しました。南側の調査区(S区)では、N区で確認した大きな谷に接続する東西方向の支谷も検出しました。
中位段丘面では、掘立柱建物や井戸などの生活に関する遺構が確認されましたが、地形的に低くなる谷部分ではそうした遺構は存在せず、耕作土層のみが確認されました。土地が高くて安定した場所に集落を営み、低地を生産域としていたようです。
また、南側の支谷では崖面に多くの土器が捨てられている状況を確認し、弥生時代から古墳時代前期には、この支谷をごみ捨て場として利用していたこともわかりました。なお、古墳時代後期以降はゴミ捨て場だった支谷部分も耕作地として利用しはじめ、1960年代まで連綿と耕作地として利用されていたようです。
第1図 調査地点の位置
写真1 6世紀後半の水田跡と灌漑用水路
手前に見える黒い土層が古墳時代後期の水田跡で、それと同時期の灌漑用と考えられる溝が水田に並行して走っています。水田の上面には古代の池の堆積が認められ、近世まで池として利用されました。
写真2 6世紀後半の建物と溝
段丘上面では、古墳時代後期の掘立柱建物(3×4間)や、幅3mを測る浅い溝を検出しました。このほかにも古墳時代前期の掘立柱建物(2×2間)などを検出しています。また、この写真から、雄略天皇陵の拝所付近が地形的に最も高く、北へ行くほど低くなっていることがうかがえます。
写真3 支谷部土器出土状況
支谷の崖面からは多量の弥生土器が出土しました。出土状況などから、谷の上流から流されてきたのではなく、段丘の上から放り込まれたことが分かります。このことから、谷の北側の中位段丘面に弥生時代中期の集落があったと推察されます。