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学校に眠る遺跡(泉陽(せんよう)高等学校、堺環濠都市遺跡(さかいかんごうとしいせき))
大阪府立泉陽(せんよう)高等学校と堺環濠都市遺跡(さかいかんごうとしいせき)
室町時代の後半から江戸時代の初期にかけて貿易都市として繁栄した「堺(さかい)」は、戦乱から町を守るために周囲に濠(ほり)を巡らし、会合衆(えごうしゅう)や納屋衆(なやしゅう)と呼ばれる有力商人たちが、町の運営を行う「自治都市」であったことが知られています。
その範囲は東を阪神高速道路堺線、西を内川、北を南海線七道駅付近、南を土居川に囲まれた内側にあたり、南北約3キロメートル、東西約1キロメートルにも及びます。
大阪府立泉陽(せんよう)高等学校は、明治33年(1900)にその前身である堺市立堺高等女学校として開校して以来、明治45年(1912)大阪府立堺高等女学校、昭和23年(1948)大阪府立泉陽(せんよう)高等学校と校名は変わりましたが堺環濠都市遺跡(さかいかんごうとしいせき)の東部にあたる堺市堺区車之町東(くるまのちょうひがし)に校舎を構えています。
堺環濠都市遺跡(さかいかんごうとしいせき)位置図
学校を掘る
大阪府立泉陽(せんよう)高等学校では、校舎増築に伴う発掘調査を、昭和60年(1985)と昭和61年(1986)に、プール改築に伴う発掘調査を平成5年(1993)年から6年(1994)の計3回にわたって実施しています。
校舎増築に伴う発掘調査では、上下2面の遺構面(いこうめん)が発見され、遺物は、貿易都市にふさわしく、明(みん)などから輸入された陶磁器や国産の陶磁器、瓦、銭、鏡、漆塗りの椀、下駄、箸、建築材など多量の遺物が出土しました。
上面からは、建物跡や、溝、井戸、瓦溜りなどが発見されました。出土した遺物から、時期は17世紀後半と考えられます。
下面では、幅約11メートル、深さ1.8メートル、幅約5メートル、深さ約1メートルの大溝が並んで発見されました。出土した遺物から大溝が埋まった時期は、17世紀前半と考えられます。堺環濠都市遺跡(さかいかんごうとしいせき)内の他の発掘調査成果から、この大溝は環濠(かんごう)の一部であると考えられています。現在の遺跡範囲とされる阪神高速道路堺線の下にあった環濠(かんごう)は、江戸時代になってから新たに掘削されたもので、それ以前の環濠(かんごう)は一回り小さかったことがわかりました。
発掘された環濠
出土した柄鏡
左の鏡のアップ。「天下一武蔵守(てんかいちむさしのかみ)」の銘があります
プール改築に伴う発掘調査では、15世紀中頃から19世紀中頃までの約400年にわたって10面もの遺構面(いこうめん)が発見されました。
堺環濠都市遺跡(さかいかんごうとしいせき)を発掘調査していると、建築材などの木製品が焼けたもの(炭化物)や、焼けて赤く変色した土を多量に含む焼土層が見つかることがあります。また、焼土層は場所によっては何層も重なっています。これが慶長20年(1615)の大阪夏の陣での焼き討ちなど、堺(sかい)を何度も襲った大火災の痕跡です。
火災の後、地面をかさ上げし整地した後、新しい建物を建て、それがまた火災にあってかさ上げをすることを繰り返し、現在の堺市まで続いているのです。このため、地下1メートル下から遺構や遺物が発見されるのです。
特に16世紀後半から17世紀前半までの第5面からは、蔵、礎石建物、溝、井戸、道路、便所、築地(ついじ)など町屋関連の多くの遺構が発見されました。
遺物は、明(みん)などから輸入された陶磁器や国産の陶磁器、瓦、銭、鏡、漆塗りの椀、下駄、箸、建築材など多量の遺物が出土しました。
特徴的なことは、江戸時代とそれ以前では、泉陽(せんよう)高等学校周辺の町割りの方向が違っていたことが明らかになったことです。江戸時代以降の町割りは、現在の町割りと同じですが、それ以前は、環濠(かんごう)に平行あるいは直交する方向の町割りであったことがわかりました。
何枚も重なった焼土層
道や側溝、建物、蔵の跡など当時の町並みがそのまま発見されました。写真左上の調査区外に見える道路と比べると、街並みの方向が違うのがわかります。
道路、道路側溝と築地。道路側溝は土が崩れないように杭を打込み、横矢板で土留めしています。
印刷用はこちらから→堺環濠都市遺跡(PDF:1,024KB)