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学校に眠る遺跡(交野高等学校、交野車塚古墳群(かたのくるまづかこふんぐん))
交野高等学校と交野車塚古墳群(かたのくるまづかこふんぐん)
大阪府教育委員会は、第83番目の府立高等学校として、交野市寺南野(てらみなみの)に交野高等学校建設を計画しました。同地は、JR学研都市線河内磐船駅より北東約0.9キロメートルにあり、地目は水田でした。北の前川、西の府道交野久御山線(ふどうかたのくみやません)、東のJR学研都市線で囲まれた約4万平方メートルの土地でした。
用地買収も終わり、さあ工事という時、用地北端に車塚という地名をもつ丘の存在を確認した交野市は、大阪府に試掘調査を依頼しました。
大阪府教育委員会は、関係者と協議の上、翌月の昭和47(1972)年12月から交野市の協力を得て、試掘調査を実施することにしました。
すると、何ということでしょう。試掘調査の初日に、木棺(もっかん)の痕跡が発見され、筒形銅器・巴形銅器(ともえがたどうき)・短甲(たんこう)など、古墳時代の極めて珍しい副葬品が出土し、貴重な古墳であることがわかりました。
この古墳は交野東車塚古墳(かたのくるまづかこふん)と名付けられ、関係者の努力によって、交野高等学校の敷地内で現状保存されることになりました。
また、引き続き行われた用地内の試掘調査で、埴輪が出土する場所が2箇所発見され、その部分は全面発掘調査が必要と判断されました。
このため、翌年2月から交野車塚古墳群(かたのくるまづかこふんぐん)第1次発掘調査が実施されることになりました。
交野車塚古墳群(かたのくるまづかこふんぐん)位置図1
学校を掘る1
昭和47(1972)年から48(1973)年の調査では、5基の古墳が発見され、第1号古墳(東車塚古墳(ひがしくるまづかこふん))、第2号古墳(西車塚古墳(にしくるまづかこふん))、第3号古墳(東車塚南古墳(ひがしくるまづかみなみこふん))、第4号古墳(西車塚南古墳(にしくるまづかみなみこふん))、第5号古墳と名付けられました。
交野車塚古墳群(かたのくるまづかこふんぐん)位置図2
- 第1号古墳:測量の結果、古墳の形が前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)であることが判明しました。墳丘(ふんきゅう)は、ほとんど削られていましたが、これは明治31年(1898)頃、片町線(現在の学研都市線)建設時に破壊されたことが聞き取り調査で明らかになりました。残っていた墳丘(ふんきゅう)には、葺石や円筒埴輪列が確認されました。
- 第2号古墳:学校用地外となったため、発掘調査は行われませんでした。一辺27メートルの方墳(ほうふん)かと推定されるのみで、詳細は現在も不明です。
- 第3号古墳:径22メートルの円墳でありながら、方形の周濠(しゅうごう)をもつ、全国的にも例を見ない極めて特異な古墳です。墳丘(ふんきゅう)は、後世に削られ、残っていませんでしたが、最下段の葺石がよく残り、周濠(しゅうごう)からは多数の埴輪が出土しました。円筒埴輪の他、家・盾・短甲)・蓋(きぬがさ)などの形象埴輪(けいしょうはにわ)も豊富です。幸いなことに、関係者の努力もあって、第3号古墳も盛り土がなされ、校舎の位置を変更し、保存されることになりました。
- 第4号古墳:径16.5メートルの円墳です。周囲に幅2メートルほどの周濠(しゅうごう)をもちます。周濠(しゅうごう)から、円筒埴輪や朝顔形埴輪や家形の埴輪などが出土しました。
- 第5号古墳:径17メートルの円墳です。周囲に幅3メートルほどの周濠(しゅうごう)をもちます。周濠(しゅうごう)から、円筒埴輪や朝顔形埴輪などが出土しました。
昭和48(1973)年3月31日には、現地説明会を開催し、出土品や調査中の第3号古墳などを公開しました。
第3号古墳全景(北から)
第3号古墳出土の短甲形埴輪(たんこうがたはにわ)(写真:交野市教育委員会提供)
学校を掘る2
その15年後、昭和63年(1988)になって、交野車塚古墳群(かたのくるまづかこふんぐん)第2次発掘調査が実施されることになりました。この調査は、交野市が実施する前川の堤防の緑道(りょくどう)整備工事に先立つ第1号古墳(東車塚古墳(ひがしくるまづかこふん))の調査です。調査は、交野市教育委員会が中心となって行われました。
この調査で、第1号古墳の主体部の全容が明らかになりました。
古墳の主体部は、後方部の中央やや西寄りの位置に長方形の墓坑(ぼこう)が南北に掘られ、その中央に粘土槨(ねんどかく)が設けられていました。粘土槨(ねんどかく)の上部は削られていました。木棺(もっかん)は残っていませんでしたが、粘土床(ねんどしょう)の断面形が半円形を呈することから、棺は割竹形木棺(わりたけがたもっかん)と推定されました。粘土床(ねんどしょう)の両端に残された粘土塊(ねんどかい)の存在から、棺の長さは8.1メートル、幅は約70センチメートルと推定されました。
第1号古墳主体部全景(北から)北端に短甲が置かれています(写真:交野市教育委員会提供)
棺の中に納められた副葬品は、3群に分かれて検出されました。
北群は、短甲・冑・巴形銅器(ともえがたどうき)・銅鏡(舶載(はくさい)の四乳四獣鏡(しにゅうしじゅうきょう))・刀・剣・ヒスイ製勾玉・碧玉製管玉などでした。
中央群は、銅鏡(仿製(ぼうせい)の四獣鏡(しじゅうきょう)・盤竜鏡(ばんりゅうきょう))・碧玉製勾玉・石釧(いしくしろ)・剣・刀・象嵌(ぞうがん)入り鉄製かんざしなどでした。
南群は、滑石(かっせき)製の琴柱形石製品(ことじがたせきせいひん)と2,000点を超える臼玉の他、刀子(とうす)・斧・剣などでした。
北群と南群の遺物の下には、それぞれ朱がよく残っていて、棺内が朱塗りだったことも分りました。
南群のさらに南側からは、ミニチュアの鎌・鍬・錐・斧・鋸などの鉄製農工具が109点もかたまりとなって出土しました。
棺内に、人骨が残っていなかったため、被葬者が1人だったのか、複数だったのかは不明ですが、棺底が北に高く作られていることからすると、被葬者は北枕に葬られたらしいことは推定されました。
昭和63(1988)年11月13日には、現地説明会を開催し、出土品や調査状況を公開し、1,000人を超える一般見学者の参加がありました。
復元された第1号古墳出土の短甲(たんこう)と冑(写真:交野市教育委員会提供)
第1号古墳出土舶載鏡(はくさいきょう)(四乳四獣鏡(しにゅうしじゅうきょう))(写真:交野市教育委員会提供)
第1号古墳出土勾玉・管玉・なつめ玉(写真:交野市教育委員会提供)
第1号古墳出土石釧(いしくしろ)(写真:交野市教育委員会提供)
その10年後、平成10(1998)年になって、交野市教育委員会による第1号古墳の墳丘(ふんきゅう)部分の調査がありました。この調査で、第1号古墳は、墳丘長は65メートル以上、後方部は高さ約6メートルの三段築成のものであることなどが判明しました。
また、平成13(2001)年には、交野市教育委員会によって、交野市寺(てら)2丁目で、全長約85メートルの前方後円墳の存在が推定され、交野車塚古墳群(かたのくるまづかこふんぐん)第6号古墳(大畑古墳)と紹介されています。
以上、3次にわたる発掘調査及び交野市教育委員会による遺物整理の結果、交野車塚古墳群(かたのくるまづかこふんぐん)の第1号古墳・第2号古墳・第3号古墳が古墳時代前期末から中期初頭の古墳で、第5号古墳・第6号古墳が古墳時代中期、第4号古墳が中期末から後期初頭の古墳と判明し、交野車塚古墳群(かたのくるまづかこふんぐん)は、古墳時代中期の古墳群であることがわかりました。もちろん、これらの古墳に葬られた人々は、当時のこの地域の首長及びトップクラスの人々であったことは言うまでもありません。
交野車塚古墳群(かたのくるまづかこふんぐん)の中でも一番古い第1号古墳は、北河内で発見された最大の前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)で、埋葬施設も完存しており、大阪府でも貴重な文化財であることから、平成3(1991)年に大阪府文化財保護条例により史跡(第45号)に指定され、第1号古墳出土品(一括)も、平成6(1994)年に府有形文化財に指定されています。
用語説明
- 筒形銅器:古墳時代の青銅製品です。長さ10数センチメートル、径約3センチメートル前後の中空(ちゅうくう)の、一端は塞いでいます。儀仗用(ぎじょうよう)の杖の頭に装着したと推定されています。
- 巴形銅器(ともえがたどうき):弥生時代後期から古墳時代の青銅製品です。半球形あるいは円錐形の青銅器を中心にしてその周囲に扁平なとがった数個の脚をつけ、全体が渦を巻いた巴形(ともえがた)を呈するような形をしています。盾などの装飾に使われていました。
- 前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん):平面形が方形と台形を連結した墳丘(ふんきゅう)をもつ古墳のこと。
- 粘土槨(ねんどかく):古墳の埋葬施設の一つで、木棺の全体を粘土で包み覆ったもの。墓坑内(ぼこうない)に棺を置く粘土床を敷き、棺を粘土で覆います。これを被覆粘土といいます。
- 割竹形木棺(わりたけがたもっかん):丸太を縦に2つ割りにし、中をくり抜き、棺用の蓋と身にしたもの。竹を割ったような形をしているので割竹形木棺(わりたけがたもっかん)と呼ばれています。
印刷用はこちらから→交野車塚古墳群(PDF:684KB)