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外子遺跡
所在地:富田林市伏見堂
種類:集落跡
時代:縄文・弥生・古墳・奈良・平安・中世
調査期間:令和4年12月から令和5年2月
主な遺構:縄文時代のピット(小さい穴)、土坑(どこう)、溝(みぞ)
主な遺物:縄文土器、土偶(どぐう)、玉、石器
富田林市伏見堂に所在する外子遺跡(げしいせき)は、石川東岸の河岸段丘上に位置する、縄文時代から中世にかけての遺跡です。周辺には西野々古墳群(にしののこふんぐん、古墳時代)、西野々遺跡(にしののいせき、鎌倉時代から室町時代)、錦織南遺跡(にしこおりみなみいせき、縄文時代から鎌倉時代)、田中古墳群(たなかこふんぐん、古墳時代)が分布しています。外子遺跡では、これまでほとんど調査が行われていませんが、古墳時代後期の墓や中世のピットなどが見つかっています。
図1 調査地位置図
今回の発掘調査は、府営農村整備事業「伏見堂地区」に伴い実施しました。その結果、縄文時代後期後葉から晩期前葉を中心とする遺構および遺物が見つかりました。以下では、主に出土した遺構について解説します。
遺構は縄文時代のピットや土坑、溝が見つかりました。ピットは約160基確認しました。ピット024のように砂岩を入れたものもあります。
図2 調査地全景(南から)
図3 ピット024(北から)
土坑117は幅53cm、長さ73cmを測る、楕円形の土坑です。縄文土器の深鉢(ふかばち)が横倒しの状態で出土しています。深鉢は縦半分に割られ、横にして設置し、別の深鉢の上半分を蓋のようにして被せています。土器の状況から土器棺(どきかん)ではないかと考えられます。土器の特徴から縄文時代晩期中葉に属すると考えられます。
図4 土坑117(南から)
土坑128は幅70cm、長さ115cm、50cmを測る、隅丸長方形の土坑です。土坑の中には砂岩を入れています。これらの石は石川から採取され、意図的に土坑内に入れていると考えられます。このほかにも今回の調査では石を多く含む土坑を複数検出しています。規模は多くが1m前後の楕円形です。どの土坑も中の石は向きが不揃いですが、意図的に土坑内に入れていると考えられます。大きさと出土状況からこれらの土坑は墓穴の可能性が考えられます。
図5 土坑128(西から)
土坑149は幅91cm、長さ180cm、40cmを測る、楕円形の土坑です。上面には砂岩製の台石が露出していました。埋土中から含クローム白雲母(がんくろーむしろうんも)製と考えられる玉が2点出土しています。土坑の規模と出土遺物から墓穴の可能性が考えられます。
図6 土坑149(南から)
土坑200は幅、長さとも169cm、深さ52cmを測る、角丸方形の土坑です。土坑200の直上で土偶が出土しました。この土偶は今朝平(けさだいら)タイプと呼ばれるものです。また土坑の埋土からは注口土器(ちゅうこうどき)やすり石、緑泥片岩(りょくでいへんがん)が出土しました。土器や土偶の特徴から時期は縄文時代後期後葉と考えられます。
図7 土坑200(南西から)
出土遺物は縄文土器の深鉢、浅鉢、注口土器、土偶、未成品を含むサヌカイト製の石器、黒曜石(こくようせき)の石核、すり石、台石、含クローム白雲母製と考えられる玉が出土しました。縄文土器は器形や調整、巻貝(まきがい)の押し型文が確認できることから、宮滝式(みやたきしき)が主体で、元住吉山式(もとすみよしやましき)や滋賀里(しがさと)1式・2式・3式も含まれていると考えられます。土偶は今朝平タイプで、耳と頭部の線刻はあるが、目や鼻などの表現はありません。上半は乳房の表現があり、両腕は弧を描いて下げているように復元できます。下半身は欠損しています。玉は錐形(すいけい)に近く、中央に穿孔(せんこう)しています。