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学校に眠る遺跡(美原高等学校、平尾遺跡)
大阪府立美原高等学校と平尾遺跡
大阪府教育委員会は、第102番目の府立高等学校として、当時の南河内郡美原町(現堺市美原区)平尾に美原高等学校建設を計画しました。
同地は、南海電鉄高野線(こうやせん)初芝駅より東約3.6キロメートルにあり、地目は水田でした。
大阪府立美原高等学校(平成15年撮影)
用地買収が終わった段階で、面積も広いことから、埋蔵文化財の有無を確認するために分布調査を実施しました。
すると、須恵器や土師器などの土器片が採集され、遺跡の存在の可能性が高まりました。
また、「金堂山(こんどうやま)」という字名の残っている塚状の高まりもあり、寺院跡ではないかと推定されました。
そこで、細長い調査区を設定して試掘調査を実施しました。すると、寺院跡らしい遺構は検出されませんでしたが、飛鳥時代(あすかじだい)や奈良時代の掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)が確認され、集落遺跡であったことがわかりました。
新たに発見された遺跡は、平尾遺跡と命名されました。
次に、学校用地の中にいったいどれだけの遺構が残り、どのような形で分布しているのかを調べるために範囲確認調査を実施しました。
その結果、ほぼすべての調査区から掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)や溝などの遺構が検出されました。
以上の調査結果をうけて、昭和48(1973)年と昭和49(1974)年に、急遽、発掘調査が実施されることとなりました。
平尾遺跡位置図
学校を掘る
発掘調査は、学校用地内に10メートルおきに幅5メートルの調査区を設定し、建物跡の発見された部分は調査区を広げる方式で行われました。この調査で、検出された主な遺構は、飛鳥時代(あすかじだい)から奈良時代にかけての合計60棟もの掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)でした。
建物跡は、そのほとんどは主軸を東西南北に揃えたものでしたが、中に少数、主軸が西に振れた建物跡や、建物跡の重複している個所もあったので、建物跡の存続年代には、一定の時期幅のあることもわかりました。
発見された掘立柱建物群(ほったてばしらたてものぐん)
建物跡は、梁間3間、桁行7間の大きな庇付建物から中規模・小規模のものまで様々な建物が検出されました。
また、総柱建物の「蔵」も検出されました。建物のほかには、長さが50メートルにも及ぶ柵列(さくれつ)や黒漆の塗椀が出土した井戸なども検出されました。
これらの遺構(いこう)は、溝によって区画された範囲内から集中して検出されました。また、今回発見された掘立柱建物群(ほったてばしらたてものぐん)の南側には、東西方向に『日本書紀』に登場する茅渟道(ちぬみち)が通っていたと考えられていることから、この集落跡は交通の要衝に作られた官衙跡(かんがあと)、もしくは付近の地名から丹比(たじひ)氏の居館跡(きょかんあと)とする説などが有力視されています。
出土した遺物は、須恵器や土師器の土器類が中心で、文字資料や木簡(もっかん)も出土しなかったことから、どのような遺跡であったか検討する資料はないと思われていました。
しかしながら近年になって、出土遺物の再整理が行われた結果、青銅製の帯金具(おびかなぐである「鉈尾(だび)」や銀の鋳造に使われた「るつぼ」などの珍しい遺物のあったことが判明し、今後の研究がまたれます。
なお、発掘調査終了後、学校建設にあたっては、遺構密度の低い用地の北側に校舎を配置し、さらに校舎の基礎などで遺構を傷つけないように学校用地全体に盛り土を施したり、プールは据え置き式にするなど、遺跡の保存について配慮がなされました。
出土した土器類
鉈尾(だび)
銀の鋳造に使われたるつぼ
用語解説
- 掘立柱建物(ほったてばしらたてもの):地面に穴を掘り、柱を直接立てて作った木造建築。
- 茅渟道(ちぬみち):『日本書紀』大化5年の条に記載されている古代の道。竹内峠より富田林市喜志を通り、堺市平尾、黒山から日置荘、草尾を経て和泉に至ると推定されています。
- 鉈尾(だび):革や布帯の表面につける飾りで先端部につけるもの。
印刷用はこちらから→平尾遺跡(PDF:503KB)