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交野支援学校四條畷校(砂遺跡)
交野支援学校四條畷校と砂遺跡
昭和58(1983)年、発掘調査が行われていた砂遺跡では、上層では、古墳時代から奈良時代を中心とする時代の須恵器や土師器が多量に出土していました。完全な形で見つかった土器もあります。
そして、さらに調査を進めると下層から縄文時代の遺物が出土し、縄文人の営みの痕跡も残されていることが明らかとなりました。調査当時、大阪では縄文時代遺跡の発見は少なく、大変重要な発見と言えるものでした。
四條畷市砂にある交野支援学校四條畷校は、昭和58(1983)年に旧大阪府立四條畷北高等学校とし開校し、平成22(2010)年4月から現在の校名になっています。「仮称大阪府立第145高等学校」として計画された当時、砂の一帯は田畑が広がり、地下に先人の遺跡が眠っていることは全く知られていませんでした。
昭和57(1982)年7月、建設予定地の埋蔵文化財試掘調査に着手したところ、思いがけず多数の土器が出土しました。
そのため、学校用地を中心とした範囲を砂遺跡と命名し、本格的な発掘調査を実施することになったのです。
調査は敷地東側のプール、体育館及び校舎棟の予定地を対象とし、もっとも深い部分で地表から2メートル余りの深さまで掘り下げました。
縄文時代から江戸時代に至るまでのいろいろな時代の遺物が出土しましたが、ここでは縄文時代の状況について紹介します。
1.砂遺跡の位置
2.学校南側にある遺跡の石碑
3.発掘調査中の様子
縄文時代中期の砂遺跡
砂遺跡で見つかった最古の土器は、4,500年ほど前の縄文時代中期の中頃のものです。船元式土器と呼んでいるもので、時期により文様に違いがありますが、明瞭な縄文、爪を押し付けたような爪形文(つめがたもん)などが特徴です。初期のものには口縁部(こうえんぶ)の外側に二枚貝の貝殻圧痕をめぐらせるものもあります。
船元式土器は西日本を代表する中期の土器ですが、砂遺跡では東日本から搬入された土器もわずかに出土しており、広範囲の交流がうかがわれます。
縄文時代中期の遺構面では竪穴住居などは発見されていませんが、どんぐりや木の実などを磨りつぶす道具である石皿と磨石(すりいし)がセットで地面に置かれていたり、磨石(すりいし)が2個と4個、それぞれきちんと並べられた状態で見つかっています。現在、体育館が建っている部分です。採集したどんぐりなどを加工調理する場であったと思われます。
砂の地に人々が暮らし始めた縄文時代中期の頃、大阪平野には大きな内湾が広がっていました。
現在の大阪市から大東市、東大阪市、八尾市あたりまで及んでおり、「河内湾」と呼ばれています。内湾がもっとも広がったのは縄文時代前期で、中期には少し後退していたようですが、それでも砂遺跡から汀線まで1キロメートル余りだったと推定されています。
現在でも学校付近の標高は10メートルくらいで、縄文時代中期の遺構面は標高6.8メートル前後で検出しました。
中期以降、砂遺跡の人々の痕跡はいったん途切れます。次に人々が登場するのは縄文時代晩期の後半、2,700年ほど前のことです。この時期、海退(かいたい)はさらに進み、かつて河内湾であったところも、陸地が広がってきていました。
4.縄文時代中期の土器
5.セットで出土した石皿と磨石(すりいし)
6.縄文時代中期の頃の大阪(梶山彦太郎・市原実『大阪平野のおいたち』の図を基に作成)
縄文時代の土器棺(どきかん)と土偶、石器
写真8は、縄文時代晩期の滋賀里3式土器の深鉢(ふかばち)で、ほぼ完全な形で残っていました。これは土器の中に乳幼児を埋葬したり、成人の骨を墓から取りだして再葬したもので、土器棺(どきかん)と呼んでいるものです。可能性のあるものを含め、晩期の終わりごろまで6基の土器棺(どきかん)が埋められていました。また、土坑(どこう)の中に骨片が発見されたものがあります。穴を掘って埋葬した土坑墓(どこうぼ)です。
また、晩期の遺物として土偶があります。いずれも破片ですが、大阪府では数少ない貴重な資料です。石の道具では、石鏃や石斧、石刀(せきとう)が出土しています。石刀(せきとう)は実用品でなく、儀式に使ったものです。
縄文時代晩期の砂遺跡はお墓だったようです。しかし、生活道具である土器や石器が出土しているので、ごくちかくに住居があったと思われます。いずれにしても、学校敷地内は縄文人が暮らした村の一角であったことは間違いありません。
7.土器棺の出土状況
8.棺に使われた土器(滋賀里3式)
9.土偶(左は足、右は女性の胴部)
10.磨製石斧(ませいせきふ)
用語説明
- 船元式土器(ふなもとしきどき):中国・近畿地方の縄文時代中期中頃の土器。倉敷市船元貝塚(ふなもとかいづか)出土土器を標式資料とします。
深鉢(ふかばち)の特徴は、粗い縦方向の縄文と爪を押しつけたような爪形文(つめがたもん)や二枚貝の貝殻圧痕をめぐらせます。 - 滋賀里3式土器(しがさとさんしきどき):近畿地方の縄文時代晩期中頃の土器。大津市滋賀里遺跡出土土器を標式資料とします。
深鉢(ふかばち)は、削りを主とし、二枚貝条痕による調整が特徴です。