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津堂遺跡現地公開資料
遺跡の概要
津堂(つどう)遺跡は、藤井寺市域の北西一帯に広がる、古墳時代から中世にかけての集落遺跡です。昭和48(1973)年に府立藤井寺高校の建設に伴って初めて調査がなされ、弥生時代から平安時代にかけての遺構・遺物が出土したことから、遺跡として周知され、現在に至ります。
過去に行われた調査では、縄文時代晩期から中世までの遺構・遺物が確認されていますが、中でも古墳時代中期(4世紀後葉から5世紀)と平安時代から鎌倉時代(11世紀後半から13世紀)の遺構・遺物が多く発見されています。近年では、平成27(2015)年に行われた物流倉庫の建設に伴う調査で、古墳時代前期末から中期初頭(4世紀後葉)の大型建物2棟と祭祀遺構が発見されており、近在する世界遺産の古市古墳群との関係を考える上でも注目されていました。
調査の経緯・経過
今回は、一般府道大阪羽曳野線の建設に伴って、令和3(2021)年8月から発掘調査を行っております。調査の結果、上面で平安時代から鎌倉時代の耕作地の溝跡や建物跡、井戸を検出し、その下の面で、古墳時代前期末から中期初頭にかけて機能したと考えられる掘立柱建物跡群と敷地の北端を区画する柵列、土坑を検出しました。
発見した遺構について
掘立柱建物を7棟検出しました。建物A・B・C・Dは柱間(はしらま)が3間(けん)×2間の総柱、建物Eは3間×2間、建物Fは2間×2間、建物Gは3間×2間に復元できます。いずれも柱を据えるための掘方はほぼ方形で、一辺が0.8メートル前後、柱と柱の間隔は約2.4メートルです。柱はいずれの建物でも抜き取られており残っておりませんが、抜き取った後の大きさを測ると直径0.25メートル前後の丸太状に復元できます。
建物跡群の北側では、柱列を検出しました。直径15センチメートル程の丸太状の柱を約3メートル間隔でたてならべています。この柵列より北側は地盤が悪く、建物跡が展開しないことから、敷地の北端を区画する柵列と考えられます。
建物の軸とそろう細長い土坑や、建物の柱を抜き取って埋めたあとに掘られた土坑を発見しました。いずれも土師器(はじき)の高坏(たかつき)や小型丸底壺などが投棄されていました。
遺構の先後関係から、建物Eと建物Fが先行し、建物A・B・C・Dが同時に建築され、解体後に建物Gが建てられたと考えております。ただし出土した土器はいずれも古墳時代前期末から中期初頭に限定され、建物の建てかえ(柱の抜き取り)が短期間のうちにおこなわれており、長期にわたって継続して使われていた可能性は低いと考えております。
建物跡群の評価について
今回の建物群は、数度の建てかえを行いつつも機能していた時期が短期間に限定されること、整然と建物がならんでいることが大きな特徴です。出土した土器の特徴は、東約1キロメートルに所在する津堂城山(つどうしろやま)古墳(前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)・墳丘長208メートル)から出土した土器とよく似ています。このことから、今回発見された建物群は津堂城山古墳の築造と同時期に機能していた、古墳の造営に深く関わる建物群である可能性が高いと考えられます。
古市古墳群の周辺で、古墳の造営と深く関わる建物跡群は現時点では津堂遺跡以外に例がなく、今回の発見は古墳時代の歴史を明らかにする上で貴重な発見となりました。
現地公開資料(カラー版)はこちらから→津堂遺跡現地公開資料(カラー版)(PDF:1,344KB)