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学校に眠る遺跡(大阪府立堺支援学校、銭塚古墳)
大阪府立堺支援学校と銭塚古墳
大阪府教育委員会は、昭和31年(1956)4月、堺市堺区東上野芝(うえのしば)町に大阪府立養護学校を開校しました。
この学校は、昭和27年(1952)、大阪府立盲学校に設置した「希望学級」を吸収したもので、全国初の肢体不自由児のための養護学校でした。
学校の名称は、昭和41年(1966)に大阪府立堺養護学校に、平成20年(2008)に大阪府立堺支援学校に変更され、現在に至っています。
この学校が設立された当時の様子は、昭和60年(1985)に発行された同校三十周年記念誌の中に次のように記されています。
「この学校の周辺で今も残っているのが仁徳陵(にんとくりょう)、履中陵(りちゅうりょう)、いたすけ古墳などですが、周囲に民家はなかったですね。
野っ原の真ん中に、平屋の白いテラスの校舎が一棟あって、何かあの周囲にマッチしない、派手やかな学校であったように記憶しております。」
また、「今のように道路状況も良くなく、学校の前の道路もスクールバスが一台ようよう通る位の道幅しかなく、舗装のないぬかるみの道路で、一雨降れば車輪がめり込むような状況でした。
雨が上がれば、そこらの石や土で道路の補修をして、スクールバスを動かしていたのです。
・・・・スクールバスを止めたら生徒が登校できないということで、雨が降ればもう大仕事でした。」
そんな学校の運動場と校舎の間には、直径約50メートルの築山状の高まりがあります。これが銭塚古墳です。
銭塚古墳位置図
銭塚古墳
明治18年(1885)に、旧陸軍の陸地測量部が測量した2万分の1地形図によると、銭塚古墳は、西向きの前方後円墳に描かれています。
さらにその頃の地籍図では、濠のあったことや濠が水田に利用されていたことなどがうかがえます。
しかし、その後に描かれた大正年間の絵図では、前方部や濠は見られず、現在と同じような円墳の形状になっていました。
昭和12年(1937)に、大阪府が学校用地として土地を取得して以来、現在の大阪府立大学の前身である府立浪速大学農学部の実習地となるなどしましたが、銭塚古墳(ぜにづかこふん)は学校内で保存されています。
大阪府立養護学校ができてからは、古墳の前方部付近がバスの乗降場・ガレージとして利用されていました。
昭和57(1982)年に、それまで木造平屋建だった教室が新校舎に改築される工事があってからは、ガレージも撤去されています。
明治18年の地図に描かれた銭塚古墳
学校を掘る
昭和56年(1981)と昭和57年(1982)に、大阪府教育委員会は、校舎改築工事に先立って銭塚古墳の範囲確認調査を実施しました。
削られた前方部の確認、周濠部(しゅうごうぶ)及び古墳以外の遺跡の存在を明確にするのが目的です。
昭和56(1981)年は、前方部周辺を、昭和57(1982)年には、後円部周辺の調査を実施しました。
この2年次にわたる範囲確認調査の結果、銭塚古墳は墳丘(ふんきゅう)が前方部の短い帆立貝形(ほたてがいがたの前方後円墳であり、出土した埴輪の時期から、古墳の築造時期は古墳時代中期後半(5世紀後半頃)と判明しました。
平成19(2007)年に、大阪府教育委員会では、大阪府立堺支援学校福祉整備事業に伴って三回目の銭塚古墳の発掘調査を実施しました。
銭塚古墳の実態の把握と元来の形状の復元が目的です。
この調査では、後円部・くびれ部・前方部などに調査地を設定しました。
その内後円部の調査地では、墳丘(ふんきゅう)の盛り土を検出しました。
また、後円部の外側に設定した調査地では、周濠(しゅうごう)に想定された部分に多数の足跡や踏み込みを検出しました。
これは、この部分が湿地であったことを示すものであり、周濠(しゅうごう)の底ではないかと考えています。
周濠(しゅうごう)の外側の肩が検出できなかった原因としては、地表面の高さが問題になります。
発掘調査の結果、墳丘(ふんきゅう)周囲の現地表面は、古墳の築造時よりも70センチメートルから80センチメートル削られていたことがわかりました。
濠の外側の肩はすでに削られていて、かろうじて濠底だけが僅かに検出されたのは、明治時代以降現在に至るまでの間に、大々的な土木工事よる「地下げ」の結果によるものと考えられます。
また、後円部の墳丘(ふんきゅう)北側に設定された調査地からは、標高20.5メートル付近で墳丘(ふんきゅう)の一段目のテラス部分が検出されました。
テラス部分からは、円筒埴輪が5個体並んで出土しました。
いずれも古墳時代中期後半の底部径18センチメートル前後の円筒埴輪でした。
この調査地で検出されたテラス部分及び埴輪列が墳丘(ふんきゅう)一段目のものだとすると、現在の墳丘(ふんきゅう)の頂部が標高21メートル程度の高さで平坦になっていることから、墳丘(ふんきゅう)の二段目より上方の部分は後世に削られていたことがわかりました。
また、後円部上で蓋形埴輪(きぬがさがたはにわ)が採集されました。
2個体分あり、共に蓋形埴輪(きぬがさがたはにわ)の「立ち飾り」部分の破片です。
胎土・焼成も良く、精巧に作られていることから、藤井寺市土師ノ里(はじのさと)付近で製作された埴輪と推定されています。
銭塚古墳(ぜにづかこふん)まで約12キロメートルも運ばれてきたのです。
発掘調査と併せて行われた墳丘(ふんきゅう)測量の結果、古墳の全長は72メートル、後円部の径は54メートルの帆立貝形古墳(ほいたてがいがたこふん)に復元されました。
このタイプの古墳としては、百舌鳥古墳群のなかでは、大山古墳(だいせんこふん)(仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう))の北西部に位置する丸保山古墳(まるほやまこふん)(全長87メートル)に次ぐ大きさのものです。
発掘調査終了後、銭塚古墳(ぜにづかこふん)は、丁重に埋め戻され、福祉整備事業の一環として整備されました。
また、平成25(2013)年には、百舌鳥古墳群の中のグワショウ坊古墳や旗塚古墳(はたづかこふん)などの10基と共に国の史跡に指定され、以前から指定されていたいたすけ古墳など7基の古墳と合わせ、「国史跡百舌鳥古墳群」として一体的な保護が図られることになりました。
銭塚古墳埴輪列出土円筒埴輪
銭塚古墳埴輪列検出状況(北から)
墳頂部から採集された蓋形埴輪(きぬがさがたはにわ)(立ち飾り)
整備された銭塚古墳(ぜにづかこふん)(西から。手前が前方部、奥が後円部です。)
用語説明
- 帆立貝形古墳:形は前方後円形をしていますが、前方部の長さが短く、平面形が帆立貝に似ているので帆立貝形古墳と呼ばれています。
- 蓋形埴輪(きぬがさがたはにわ):蓋(きぬがさ)とは貴人にさしかける傘のこと、それをかたどった埴輪を蓋形埴輪(きぬがさがたはにわ)と呼んでいます。
印刷用はこちらから→銭塚古墳(PDF:871KB)