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人権学習シリーズ 同じをこえて 「差別と平等」をどう学ぶのか/1.差別になるのはどんなときか?
1.差別になるのはどんなときか?
差別とは?
最初に「差別とは何か?」を定義しておきましょう。ここでの定義は、考えを深めていくための土台に当たるもので、これで全てが完結するというわけではありません。
端的に言えば、差別とは、何かの理由でいろいろな人に対して不公正に違ったふうに対応することです。ここでのポイントは、不公正という言葉です。対応が違っていたとしても、それが公正な違いであるなら差別とは言いません。逆に、対応が同じであっても、同じにすること自体が不公正であるなら差別になるという意味です。
不公正とは?
何をもって不公正とするかは、時代とともに変化します。例えば、「女性は家庭で家事をするべきだ」「母親として育児を担うのが当然だ」という考え方があります。日本でも、しばらく前まではそのような考え方が広くありました。けれども、2009(平成21)年内閣府「男女共同参画社会に関する世論調査」では、「女性は家庭で家事や育児をするべきだ」という考え方は少数派になっています。とりわけ若い人たちの間では、この傾向は強くなっています。「でも、昔はそうでしたよね」と考えている人もいるかもしれません。これも必ずしもそうではありません。日本の主要な産業が農業であった頃、女性は家事や育児をするというよりも、一家の働き手として農業に従事していました。育児などは、母親もしましたが、お年寄りや年長の子どもがあたっていました。安土桃山時代に日本に来た宣教師なども驚きをもって「日本は男女が平等だ」と書き記しています。江戸時代に「女性は家で」と考えられていたのは、武士の社会だけだったのです。そして、武士の比率は当時の数%を占めるにとどまっていました。
何をもって不公正とするかを左右するのは、時代だけではありません。そもそも、何のために不公正と判断するのかが問題です。例えば、その判断によって法律的に何らかのペナルティを受けるという場合があり得ます。このような場合には、たいてい明確な基準が定められています。「障害者の雇用の促進等に関する法律」第38条などに基づいて、民間企業の障がい者雇用率は1.8%と定められています。それ以外にも、法律的定めはなくとも社会的規範として不公正というべきだという場合があります。この場合には、基準は多くの場合あいまいでしょう。
どんな理由で対応を変えるのか?
対応の違いを左右する指標がどのようなものであるかも問題です。そもそも、その指標は不可欠な指標なのかという点があります。就職試験で学力を調べるという場合、そこで調べる学力は本当にその仕事に不可欠なのかといった問題です。あるいは、努力すれば変わる指標なのか、それとも努力しても変えようのない指標なのかという点があります。人種や民族、社会的出身、性別、障がいなどといった指標で対応を変えることは、不公正とされます。ただし、これらもあらゆる場合に不公正とは限りません。映画でリンカーンの役を演じる俳優を選ぶ際に白人を選ぶということは、一般的には認められます。
また、判断される場面が人生にとってどれほど重要かという面でも、不公正の基準は違ってくる可能性があります。障がい者の法定雇用率にも関わりますが、雇用は生活全般を左右するものであり、人生でも重要な意味を持ちます。それに対して、映画を観るというのは、雇用ほど厳密に公正さが追求されるわけではありません。
さらに、判断する側がどのような権力的立場にあるのかも問題です。例えば雇用でいえば、雇用する側よりも雇用される側の方が、一般的に弱い立場だと言えるでしょう。たいていの場合、強い立場にある側の判断に対して「公正かどうか」がより厳しく適用されることになります。
差別克服に関わる堅実で繊細な文化を練り上げることが必要
差別克服について議論を広く重ねてきた社会や国にあっては、このような基準が社会的・法律的に明確に定められていることが多いと言えます。日本では、出世魚というのがあります。ブリは、小さいころから「ツバス」「ハマチ」「メジロ」「ブリ」などという具合に名前が変わっていきます。これは、日本社会が魚類について繊細な感覚を持ち合わせているからだと言えるでしょう。差別や平等についても、その社会がこの問題に敏感であればあるほど、繊細な感覚や文化を発達させ、概念も詳細になっているという可能性があります。日本社会においても、差別や平等についての文化や概念をさらに発展させていきたいものです。
以上のことからも分かるように、差別や不平等を測るモノサシは単一ではありません。「差別は対応の不公正な違いだ」という点ではシンプルなのですが、「何をもって不公正とするのか」という点については複雑で、複数の複雑なモノサシがあり得るということです。