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更新日:2010年4月30日

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人権学習シリーズ 同じをこえて 不安が排除に変わるとき 分けることと差別/資料1 ハンセン病とは

資料1 ハンセン病問題とは

ハンセン病とは

ハンセン病はらい菌の感染によっておこる感染症です。主に末梢神経と皮膚がおかされる病気ですが、現在では治療することにより障がいを残すことなく治ります。
菌の病原性は非常に低く、感染することはきわめてまれで、かりに感染してもそのなかから発病する人はさらに少なくなります。確実な治療法のなかった時代においてさえも、ハンセン病が原因で死亡することはほとんどありませんでした。

このようにハンセン病は感染症の一つで、決して隔離するような病気ではありません。それではなぜ、ハンセン病にかかった人を厳しい隔離に追い込んでしまったのでしょうか。それは、社会全体がこの病気を恐ろしい病気と誤解してしまったからです。

日本のハンセン病対策

1873(明治6)年、ノルウェーの医学者アルマウェル・ハンセンが、らい菌を発見しました。その後「ハンセン病はらい菌による感染症である」ということが国際的に確立されたのは、1897(明治30)年にベルリンで開催された「第1回国際癩会議」でした。
日本ではそれまで信じられていた「遺伝病」説が完全に消えることはなく、その上に「感染する」という概念も加わり、社会に広まっていきました。そして、ハンセン病患者は家庭や故郷から追い出され、放浪生活を余儀なくさせられました。
社会で、必要以上に「ハンセン病は感染症である」ということが強調され、「患者を隔離することによってのみ社会が救われる」という考えの下で、法律をつくり、それによる対策を進めました。このような社会防衛的な考え方は、その後「民族浄化」思想と相まって官民一体の“癩を絶滅しよう”とする「無癩県運動」へと発展していきました。

さらに1931(昭和6)年には、「癩予防法」が制定され、隔離の対象は街中を放浪しているハンセン病患者から、家にいる患者も含めた全患者に拡大し、「絶対終生隔離」へとエスカレートしてしまいました。
1943(昭和18)年、プロミンという薬がハンセン病の治療に有効であることがアメリカ合衆国で報告されると、国際社会はいち早く隔離から開放医療(在宅医療)へと方針を転換していきます。

しかし日本ではその後も隔離政策を続けました。プロミンは日本でも独自に開発が進められ、1949(昭和24)年頃から全国の療養所でも治療に使われるようになり、ハンセン病は治るようになりました。
この頃から日本の隔離政策は国際社会から何度となく批判を受けるのですが、1948(昭和23)年頃から保健所を中心に、第2次「無らい県運動」と呼ばれる「患者狩り」をおこないました。1953(昭和28)年、新たに「らい予防法」が施行された後も隔離政策は続き、その結果1956(昭和31)年の全国の療養所入所者数は12,055人にのぼっています。

「らい予防法」廃止以後

1996(平成8)年4月1日、国はそれまで89年間継続した「らい予防法」を廃止し、「らい予防法の廃止に関する法律」(新法)を制定しました。
この新法には、「らい予防法」を廃止することと、ハンセン病療養所の入所者に対して、現在国が行っている医療・福祉・生活の保障をこれからも維持することが明記されています。

国は、予防法を廃止したのですが、その時及びそれ以後、予防法の誤りに対する謝罪を一切しませんでした。また、その後の対策をみても、予防法廃止後の最重要課題である入所者の社会復帰に関しては、ほとんど施策らしきものが実施されず、復帰があまり進まない状態でした。
これらのことに不信を抱いた13人の入所者が、1998(平成10)年7月31日、「らい予防法」の違憲性を問う「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」を熊本地方裁判所におこしました。熊本地裁(西日本訴訟)のみで争われていた裁判はさらに東京地裁(東日本訴訟)、岡山地裁(瀬戸内訴訟)へと拡大し、最終的には2,322人が3か所の訴訟に参加しました。

裁判が先行していた熊本地裁において、2001(平成13)年5月11日、原告側の主張をほぼ全面的に認めた判決が出されました。これに対して国は5月23日、控訴を断念して、ハンセン病国賠訴訟の熊本地裁判決が確定しました。東京地裁、岡山地裁もこれに続きました。そして、6月15日に、「ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律」が成立しました。これには金銭補償と名誉回復や、福祉対策の向上を国の責任で行うことなどが盛り込まれています。その後ハンセン病問題の全面解決に向けて、国と統一交渉団(全国ハンセン病療養所入所者協議会・ハンセン病国賠訴訟全国原告団協議会・ハンセン病国賠訴訟全国弁護団連絡会)で話し合いが行われています。

また、2006(平成18)年2月10日、「ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律」の一部が改正され、1945(昭和20)年8月15日までの間に、韓国・台湾など国外のハンセン病療養所に入所していた方も、新たに補償金等の対象になりました。

2009年(平成21)年4月、「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律(通称・「ハンセン病問題基本法」)が、国の誤った強制隔離政策によるハンセン病回復者の被害回復を目的として施行されました。ハンセン病回復者が地域社会から孤立することなく、良好かつ平穏な生活を営むことが出来るようにするための基盤整備、偏見と差別のない社会の実現、福祉の増進、名誉の回復等のための措置を講ずることについて、国や地方公共団体の責務が明記されました。

ぬぐわれない偏見

「らい予防法」廃止以後、全国をめぐり、ハンセン病の問題について差別の歴史や自らの体験を語る入所者が増えています。
偏見・差別の解消のため、積極的に活動を続けている入所者が、身内・親族の理解を得られず、最も望んでいた自分の故郷での講演を断念せざるを得なくなるなど、この問題の難しさを浮き彫りにしました。

また最近になって、私たちの大阪の町工場で外国人労働者の中から、ハンセン病が見つかりました。主治医は病名を知られないように配慮しましたが、病名がわかると、工場主はすぐにこの人を解雇してしまいました。多くの支援者が、まわりの人たちにこの病気の理解が得られるよう努力しましたが、結局この人は日本を去らざるを得ませんでした。
2003(平成15)年11月には、熊本県内の宿泊施設が「乳幼児に感染の恐れがある」「他の宿泊客に考慮して」などの理由で入所者の宿泊を拒否しました。このように社会には、まだまだハンセン病に対する偏見・差別が残っており、より一層の正しい知識の普及啓発の必要性が指摘されています。

おわりに

現在、全国のハンセン病療養所では、約2,700人(2008<平成20>年5月現在)の方が生活しています。
入所者の平均年齢は79歳を超えており、残された時間は決して長くはありません。
日本のハンセン病対策の誤りは、私たちに大きな教訓を残しました。二度とこのような過ちを繰り返さないよう、一人ひとりが何をしなければならないか、真摯に考えていく必要があります。

「ハンセン病を正しく理解するために」発行)大阪府 2009(平成21)年版より抜粋

資料1 ハンセン病問題とは(印刷用)(PDF:402KB)

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