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更新日:2014年4月28日

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人権学習シリーズ ありのままのわたし 大切なあなた 子育てしやすい社会って?!

資料2

子育て事情 いま・むかし

[江戸時代の子育て]

  • 武士の家では跡目相続という考え方のために、男の子を育てるのは父親の役割。文武のほか、日常の礼儀作法や言葉づかいなどをこまかく教えるものとされていた。
  • いまでいう「育児書」にあたる書物も、父親向け。幼いころの関わり方から、40歳をすぎて家をゆずって後見人になるまで、「父たるの道」が書かれた書物がいろいろと発行されていた。
  • 庶民の間では、「村の子ども」つまり共同体の子どもとしての視点が強くあった。1つの家族、ひとり/ひと組の親によってのみ育てられるのではなく、ネットワークの中で子どもは育っていった。
  • 象徴的なのが、さまざまな「仮親(擬制的親子関係)」。仮親とは、血縁関係によらず、子どもの成長のさまざまな場面で関わってくる“機能別の親子関係”。以下のようなものがあった。

取上親(産さん婆ば とはべつに、出産時にへその緒を切る人)
抱き親(出産直後に赤ちゃんを抱く人)
行き会い親(赤ちゃんを抱いて家の外に出て最初に出会う人)
乳親(生後数日間、乳を与えた女性)
拾い親(丈夫な子どものいる家の前に形式的に捨てた赤ちゃんを、一時的に拾って預かった人)
名付け親(名前をつけた人。たいていは自分の名前から一字あるいは複数の字を与えた)
守親おや(幼児になるまで子守をした人)
烏帽子親(武家の元服に立ち会う)

それぞれの仮親の役割は一時的なものだが、子どもと仮親とのつきあいは一生続いたとも言われる。
「男性による子育て」「血縁にないもの(社会のネットワーク)による子育て」が現代よりもさかんだったともいえる。

[いまの子育てへの流れ]

  • 明治にはいり、社会のさまざまな分野で価値観が変化する中で、女性の生き方として「良妻賢母」が提唱されるようになった。良妻賢母の考え方は、家庭内での役割というよりは、家事や育児、(職業や兵役についた)夫への内助をとおして、女性が国の役に立つための思想として登場した。
  • 大正時代には「赤ん坊展覧会」という、“子育てコンクール”も行われ、『我が子の教育』(鳩山春子著)がベストセラーになるなど、母親の教育熱が高まった。
  • 「母性」「母性愛」という言葉/概念が登場したのも大正時代。もともとは「生まれながらに持っている」「本能」などと結びつけられた意味はなかったのに、いつのまにか母子の愛は特別で崇高なものというイメージが強調されていった。
  • 長い間、子どもは「授かりもの」ととらえられていたが、戦後のベビーブームを経て(人数やタイミングを考えて)「つくるもの」となり、子育てをとおして母親として自己実現をめざすことが、女性の生き方として一般的になっていく。
  • 1960年代に「三歳児神話」(3歳までの乳幼児期に母親による濃密な接触と教育が重要、という説。海外での研究理論が偏った形で紹介されたもので、日本に固有)が広がる。「子育ての中心は母親であり、とくに3歳までは母親が子どもにかかりきりで育てるべき」という考え方は、現在の祖父母から子育て中のほぼ3世代にみられるもので、伝統的なものではない。1998年(平成10年)版の「厚生白書」で「合理的根拠はない」と明確に否定されたが、いまでも影響は大きく、子育て中の(とくに母親への)プレッシャーとなっている。

『NHKテレビテキスト 歴史は眠らない ニッポン母の肖像』(香山リカ)日本放送出版協会(2010年)などを参考に作成

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