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連載コラム「大阪のだし」 第17回 (平成25年5月16日掲載)
「おいしさとだしの科学」 お話いただいた方:伏木 亨 さん
おいしさって、なんだろう。おいしいものを食べると、うっとりした幸福感に包まれる。時には、お腹が一杯なのに手が止まらなくなって、ついつい食べ過ぎてしまう。
「それは、脳が快感を感じているからなんですよ。」
そう教えてくださったのは、「おいしさ」について、長年研究しておられる、京都大学大学院の伏木教授である。
「油脂も砂糖も、脳が『おいしさの快感』を感じることがわかっています。快感が繰り返されると、やみつきになってしまい、ストップが効かなくなるんです。」
「油脂も砂糖も、カロリーが高くて、動物が生きていくうえで非常に大切な食べ物ですからね。食べると、『いいものを食べた!』と、脳がご褒美の快感を出してくれるんですよ。快感を求めて行動するというのが本能です。つまり我々は、油っこいものや甘いものを食べるよう、本能に命じられているんですよ。」
なるほど、そうだったのか。スイーツが別腹なのも、満腹であるにもかかわらず袋が空になるまで油分たっぷりのスナック菓子を食べ続けてしまうのも、本能のしわざだったんだ!
「実は、だしにも、油脂や砂糖のように、脳に快感を感じせ、やみつきにさせる効果があるんですよ。」
ええっ!だしで快感!?
「おそらく、だしの味わいは、アミノ酸、つまりたんぱく質がたくさんありますよ、という信号なのだと思います。重要な栄養素だから、快感を感じ、本能が食べろと命じているんでしょうね。」
どのくらい油脂、砂糖、だしに執着するかを、ネズミで調べた実験結果があるという。
「ネズミのケージにタッチパネルを置いて、ネズミが規定の回数だけ手で触ると自動的にシャッターが開いて、一滴だけ砂糖水、油あるいはだしの溶液が食べられるようにします。」
すると、ネズミは一滴では満足できないので、また、パネルに触る。パネルが開くたび、次にシャッターを開けるために必要なタッチの規定回数を徐々に上げていく。10分間以内でクリアできなかったらそこでおしまいだ。
「最終的に、1滴のために何回パネルに触ったかで、どのくらい好きか、執着しているかを判断するわけです。」
ネズミには、あらかじめタッチパネルをタッチする訓練をし、また、実験前には、砂糖水、油、だしを、1週間ネズミに与えて十分執着を起こさせておく。
「結果は、コーン油では150回。砂糖水とだし・醤油溶液では、50~60回ほどでした。」
油に対する執着ぶりには驚くばかりだが、ネズミは、砂糖と同じくらいだしに対しても執着していることがわかる。
本コラム第9回で「道頓堀 今井」の今井徹さんが、「うまいだしを飲むようになると、口のどこかがそれを求めるようになってきますね。ほんま無性にだしが飲みたくなります。」とおっしゃっていたが、それは、脳が、だしに執着しているからだったのだ。
「油脂や糖の摂りすぎは、糖尿病や高血圧などの生活習慣病の原因になることは誰でも知っています。でも、本能の命令だから、なかなか抵抗しにくい。でも、だしならば、油や砂糖に対抗できるんです。」
だしの快感を知らないと、油と糖にだけ執着してしまう。たからこそ、健康維持のためには、だしの利いた日本食を見直すことが大切だと、伏木教授は力説する。
「パン食だと、どうしても脂肪と糖の摂取量が多くなってしまいます。でも、ご飯が中心の食事だと、だしの利いた副食が多くなるので、低脂肪、低カロリーでも、脳は満足するんですよ。ご飯を中心にして、おかずには、油・砂糖・だしという3つの選択肢を持てば、バランスのとれた食生活につながります。」
でも、だしにもウィークポイントがあると、伏木教授は言う。
「だしに執着するには、香りが必要なんですよ。ネズミの鼻を鈍らせてしまうとだしに対する執着がなくなります。砂糖と油には、香りは関係ないんですが、だしの場合は、うまみと香りの二つが存在してはじめて、脳がやみつきになるんです。」
ところが、うまみというのは味覚であり、先天的で、万国共通であるのに対し、香りの好みというのは、後天的で、遺伝しないのだという。
「だしになじみがない外国人は、昆布・かつお節のだしや昆布茶を飲むと、生臭くて磯臭くて嫌いだ、という人が多いんです。うまみは感じても、匂いに慣れていないからです。つまり、かつお節や昆布などのだしの香りは、子どものときから刷り込んでおかないと、楽しむことができないんです。」
小学校低学年くらいまでに、きっちりと大人が「おいしい」と子どもの前で言いながら与える、ということが大事だという。
「だしは、高い満足感を与えてくれます。健康的な食生活を営むためには、だしのおいしさを再認識して、次の世代に伝えていくことが大切です。それに、だしを好きになることは、お米を食べることにつながり、食料自給率のアップにもつながりますからね。」
だから、まずは子どもたちに、本物のだしを飲んでもらって、好きになってもらいたいと、伏木教授は、プロの料理人と一緒に小学校をまわるなど、様々な活動を京都で行っている。本物のだしの味を経験すると、子どもたちはすごく感動するという。
「食べ物の好みは遺伝しませんからね。大阪でも、大阪のだしの美味しさを伝えなければ、一世代で終わってしまいますよ。」
それは一大事である。おいしさと、健康と、日本の食糧安全保障と、そして日本独自の食文化。こんなにもたくさんのものを支えている「だし文化」が、大阪から消えてしまうなんて、あまりにももったいない。
伏木 亨 さんのプロフィール
伏木 亨(ふしき とおる)
京都大学大学院 農学研究科 教授
1953年京都府生まれ。
滋賀県で育つ。1975年京都大学農学部卒業、同大学院を終了。京都大学助手・助教授を経て、現在京都大学農学研究科食品生物科学専攻栄養化学分野教授。2009年より京都大学白眉センター長(3年間)。1985年から1986年まで米イーストカロライナ大学医学部へ留学。
2009年度日本栄養食糧学会会賞
2008年度安藤百福賞受賞
日本栄養・食糧学会評議員、日本香辛料研究会会長、日本味と匂学会運営委員。
食品・栄養を中心としておいしさの脳科学、自律神経と食品・香辛料の生理機能など、幅広い研究を行っている。
<主な著書>
「味覚と嗜好のサイエンス」(丸善)
「コクと旨みの科学」(新潮社)
「人間は脳で食べている」(筑摩新書)
など多数
文=日下部 貴美子