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連載コラム「大阪のだし」 第13回 (平成25年3月7日)
「ふぐ一筋に生きる誇り」 お話いただいた方:北濱 喜一 さん
泉州、岸和田と言えば、勇壮なだんじり祭りで、そして、NHKの連続テレビ小説「カーネーション」の舞台として、有名なまちだ。
南海岸和田駅から海側に続く商店街を抜けると、城下町としての名残をとどめる町並みを縫うように細い石畳の路地が続き、やがて紀州街道にぶつかる。ふぐ料理の老舗「喜太八」は、そんな歴史あるまちの一角にある。
「喜太八」二代目店主の北濱喜一さんは、85歳。今なお、現役のふぐ料理人であるとともに、世界的に有名なふぐの研究家だ。
喜一さんは、20代の頃から60年以上にわたり、分類学、解剖学、毒性実験からふぐ食の文化・歴史に至るまで、あらゆる角度からふぐの研究を行ってきた。私設の研究室を設けて実験を行い、世界中からふぐの標本を集め、集めた標本等を展示するために、私財を投げ打って「ふぐ博物館」まで開設している。
膨大な時間と費用を投じて、喜一さんがふぐ研究に打ち込んできたのは、「社会に貢献せよ。」という初代「喜太八」店主、父の喜太郎さんの教えが原点だと言う。
北濱家は、江戸時代から、大阪湾を中心に物資を運搬する廻船問屋を営んでいたが、喜太郎さんは、公的な救助組織がなかった明治時代に、「岸和田救助会」という組織を立ち上げ、台風などで遭難した船の乗員救助を行った。
「暴雨風の中、小船に乗り込んで、岸和田沖だけやのうて、樽井沖とかまで出かけるんです。船が遭難して、連絡があるたびに出かけていった。凍えないように、醤油を飲んで、体温を上げて出かけていったそうです。」
まさに命がけで救助を果たした喜太郎さんに、明治、大正時代の歴代の大阪府知事から多くの感謝状が出されている。
「昔から、大阪には、お上に頼らず、民がやるという風潮がある。おやじの「社会に尽くせ。」という教えが、私のふぐ研究の原点なんです。」
その喜太郎さんが、ふぐ料理屋「喜太八」を開いたのは大正2年のことだ。
大阪は、全国一のふぐ消費地である。喜一さんの調査によれば、大阪府では、全国のふぐの消費量の6割以上が消費されているとのこと。大阪人がそれほどまでにふぐが好きなのには、ちゃんと理由がある、と喜一さんは言う。
海岸近くで比較的簡単に獲れるふぐは、古代からよく食べられていたらしいが、江戸時代になると、各藩では、ふぐ毒で武士が命を落とさないよう、食用禁止として厳しい取締りを行った。家禄没収、お家断絶の処罰を設けていた藩さえあったそうである。
「ところが大阪では、ふぐ料理屋が、堂々と大きな看板を掲げて営業していた。そんなことができたのは、お上のお目こぼしがあったからですわ。」
当時、経済の中心であった大阪の大商人から上納金を得る引き換えに、幕府の取り締まりが緩かったのだろう、と喜一さんは考えている。
さて、喜一さんが20歳の頃、当時の日本では、まだまだ終戦後の食糧難が続いており、不足するたんぱく質を補うため、ふぐが大いに食べられていた。その一方で、多くの人命が、ふぐ中毒で失われていた。
「私が詳しく調べた結果、昭和22年から24年までの3年間だけで、800人近い人が死んでいることがわかったんです。」
「なんとかせなあかん。」と考えた喜一さんは、「ふぐ中毒をなくす。」という志をたて、昭和29年、26歳のときに、東京大学、京都大学、九州大学の研究者とともに、「日本ふぐ研究会」を立ち上げた。その後、長年にわたり、地道な研究を重ね、多くの論文を発表し、プロの料理人だけでなく一般の人にもわかるようにと、心を砕いてふぐ中毒防止のための啓蒙を重ねてきた。
近年では、時折、素人料理でふぐ中毒を起こす人がいるものの、ふぐ中毒の発生数や死亡者数は激減している。喜一さんは、現在も、自治体で使われるふぐ調理資格取得用のテキストを執筆したり、メディアの取材に応じたりして、ふぐ中毒の防止活動を行っている。ふぐ研究の第一人者である喜一さんのもとには、スミソニアン博物館など海外の研究機関からの問い合わせも多く寄せられるという。
しかし、喜一さんは、研究だけをしているわけではない。
今も、毎日、「喜太八」の厨房に立ち、自慢の包丁でふぐをさばいている。「うちのふぐ料理は、他の店では真似できません。」と喜一さんが自負するふぐ料理を食べに、全国からお客さんがやってくるのだ。ミシュランガイドブックに掲載されてからは、世界各地からやってくるお客さんも増えたという。
「喜太八」の献立は独創的なものが多いが、そのレパートリーは、初代から受け継いだ二十数種類の料理法がベースになっている。ふぐとクエン酸の相性がよいことから、ポン酢だけでなく、梅肉を使うというのも初代の考案だそうだ。
琥珀色の「だし」をふぐのゼラチンで固めた「べっ甲流し」は、見事なまでに透き通っていて、食べるのを惜しんで長い間眺めている人も多いという。
てっちりの「だし」は、淡い色味にふぐの滋養が溶け出した、とても上品な味わいである。てっちりの後の「ふぐ雑炊」は、更にふぐの旨みが深まった「だし」に、烏骨鶏(うこっけい)の卵を入れて作る。長年使い込んできた土鍋には、ふぐの「だし」が染み込んでおり、夏場は、週に1回は湯通しして、カビがつくのを防がなくてはならないほどだという。
ふぐ自体は非常に淡白な味であるのに、どのような方法でこの美味しい「だし」をとっておられるのだろうか。喜一さんに尋ねてみると、「ふぐは、肉のうち0.1%しか脂がなく、非常にあっさりとしてます。でも、肉の20%はコラーゲンやし、水溶性のビタミンもある。工夫すれば、ふぐの骨からも皮からも身からもいろんなとこから、だしが出ます。が、それ以上のことはお話できませんなぁ。」
と、つれない返事。
「思いをめぐらすのも味のうち。どないしてこんな味になるんやろか、と考えて味わうのも、味のうちです。」
と優しく教え諭された。
「日本文化は、組み立て・組み合わせの文化なんです。料理も、丁寧に下ごしらえをして素材それぞれの個性を引っ張りだし、それを組み合わせていく。お椀やお皿の中に、季節の香り、色、形、味を組み合わせていく。それに比べると、外国の料理は、素材を混ぜ合わせ、積み重ねていく文化ちゃいますかなあ。」
岸和田の男、喜一さんは、もちろん、地車(だんじり)についても造詣が深く、この組み立て・組み合わせ文化である日本文化を、地車でも熱く語ってくださった。建築と彫刻を融合させ、神道、儒教、道教、仏教の様々なシンボルを融合させ、釘を一本も使わずに建造された地車は、日本文化の象徴であるというお話は、説得力のあるものであった。
「信念で突き進んできたから、そっぽむかれたことも多い。」
という喜一さんは、とにかく気骨の人である。大阪のまちは、こういう人物が支えてきたのだろうと、胸が熱くなった。
北濱 喜一 さんのプロフィール
北濱 喜一 (きたはま きいち)
1928年 大阪府岸和田市生まれ。
ふぐ料理「喜太八」二代目店主。ふぐ料理北濱流宗家。
「日本ふぐ研究会」会長。
1954年に、「日本ふぐ研究会」を立ち上げ、大学の研究者とともにふぐの毒性に関する研究を行い、数多くの成果をあげる。
1964年には、研究のために集めたふぐの標本や民芸品、美術工芸品などを展示するためのふぐ博物館を開館。
また、現在も、「喜太八」にて包丁をふるい、科学的な研究の結果も活かしたその料理は、「ミシュランガイド京都・大阪・神戸・奈良2013」ミシュラン二つ星に選ばれるなど、高く評価されている。
著書に、「ふぐ大学(カラーブックス)」(保育社)、「ふぐ博物誌」(東京書房社)など。
「喜太八」
大阪府岸和田市五軒屋町24-14
電話:072-422-3929
営業時間:17時から22時
定休日:火曜、5~9月頃、年末年始
「ふぐ博物館」
大阪府岸和田市北町10-2
電話:072-422-3929
開館時間:10時から15時
※事前に電話で予約が必要です。
休館日:火曜
入館料:無料
北濱喜太郎さんに出された大阪府知事感謝状。
大分県、和歌山県など、北濱喜一さんは、多数の自治体のふぐ調理資格取得者用のテキストを執筆している。
見事なまでに透き通った美しいふぐの煮こごり「べっ甲流し」
ふぐの上品な味わいが十分に引き出されただしで作る「てっちり」。
文=日下部貴美子 写真=山田泰常・日下部貴美子