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治水のあゆみ
大阪平野は、大部分が淀川や大和川の氾濫により形成された、地盤高の低い沖積平野です。これらの河川勾配は、比較的緩やか(4,000分の1から10,000分の1程度)で、生駒山の山麓付近までがほぼ感潮区間であり、かつ低地盤であるため、たびたび洪水や浸水の被害にあってきました。そこで、古くから数々の治水事業が行われてきました。
ここでは、現在までに行われてきた治水事業について紹介します。
大阪平野の地形と特色
縄文時代前期には、大阪平野は内海の一部でした。その後、淀川や大和川のたびかさなる氾濫により、土砂が堆積され、低地が形成されました。大阪平野は、多くの河川を有しており、水資源に恵まれている反面、水害を受けやすい地形となっていました。
大阪市域の洪水の歴史は古く、仁徳天皇の時代(320年頃)までさかのぼることができます。「難波の堀江」や、「茨田の堤」などが記録に残っています。
文禄堤
豊臣秀吉によって、淀川左岸の枚方から長柄の間に、「文禄堤」が造られました。これにより、河内平野の村落は、淀川、大和川の外水氾濫さえなければ、流域内の大部分が湿田であったこともあり、特に浸水被害は生じなかったといわれています。
安治川開削事業
江戸時代元禄期(5代将軍綱吉の時代)に、大坂の拡張工事が進められることになり、河村瑞賢が開削工事を実施し、淀川下流の治水に貢献しました。また、堂島や曽根崎などの新地も、この頃に生まれました。同時に安治川河口に港をつくり、水運の発展にもつながりました。
大和川付替事業
河村瑞賢は、大和川の付替には消極的で、旧川の堤外地の障害物除去、局部的拡幅をおこなったのみでした。
瑞賢の没後、付替工事が開始されることになりました。安治川開削から20年後の1704年、柏原から堺の間約14.5kmに新しい流路を開削する大和川付替工事が起工しました。この工事は、わずか8ヶ月で完成しました(1704年2月から10月)。これで、河内平野は、大和川からの洪水から解放され、旧大和川の川跡には、綿作地や新田が開かれました。
デ・レーケによる淀川改修事業
明治8年(1875年)、日本政府が招いたオランダ人技師ヨハネス・デ・レーケは、淀川の治水工事に着手しました。デ・レーケは、流域の砂防工事や川底の浚渫工事を行う一方、かんがい用にも利用できるようにするなど、明治34年の帰国まで淀川の治水に貢献しました。
新淀川開削事業
淀川下流の中津川に沿って、佐太から河口まで約16kmの新淀川を開削しました。これに併せて、現在の大川(旧淀川)入口の毛馬に洗堰を、神崎川に樋門を設けることで、両河川の水量の確保、土砂の流入の防止を実施しました。この計画は、フランス帰りの技師、沖野忠雄の計画により、明治29年(1896年)から明治43年にかけて、我が国最初の本格的な治水工事として行われました。
高潮対策事業
被害が甚大であった昭和36年の第2室戸台風による高潮で、大きな災害が発生しました。この機に、恒久的な高潮対策事業として、緊急3ヵ年計画が決まり、防潮施設工事を行い、昭和39年に完成しました。しかし、社会、経済情勢や地盤沈下などを考慮し、さらなる防潮施設の整備強化を進める必要がありました。
昭和40年には、「大阪高潮対策恒久計画」が策定され、安治川水門、木津川水門、尻無川水門の3つの大水門をはじめとする防潮水門が建設されました。これは、台風の中でも、強さおよび規模において最大級と考えられている伊勢湾台風と同規模の大型台風が、大阪湾に最悪のコース(室戸台風の経路)を通り、満潮時に来襲したことを想定して整備された防潮施設です。
護岸の耐震補強
これまでの高潮対策事業によって、高潮被害に対する安全性は向上しました。しかし、護岸は、地盤沈下のため、繰り返し嵩上げ工事が行われてきました。よって、地震に対する安全性が問題となってきました。
そこで、現在、各河川の防潮水門から上流の防潮堤について、震度5程度でも安全な、防潮堤の耐震補強を行っています。河川の高潮対策、耐震対策工事を行い、治水の安全度をさらに高めながら、河川と街とが一体となった、親水性の高い空間として、スーパー堤防の整備も進めています。
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