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計量の歴史
計量の歴史(世界)
秤(はかり)のおこり
計量の歴史は、まず数と時間の計量に始まり、道具をつくるために長さの計量が、ついで農業とともに面積や体積の計量がはじまります。重さの計量は都市国家が発達して経済に余裕ができ、金銀や宝石などに価値が認められるようになった紀元前8000年ごろに始められました。
重さの計量に使われた最初の道具は天秤(てんびん)です。天秤棒の両端に、同じ重さの荷物をかけて運ぶ作業は、ずいぶん昔から行われていたのでしょう。一本の棒を中心で吊り、両端に皿を紐でぶら下げてつりあわせて重さをはかる天秤が考え出されたのも容易だったと思われます。
天秤は神の秤
古代エジプトの『死者の書』の中には、《死者の裁判》の場面に天秤が描かれています。
死者は、墓地の守護神ヌビスに導かれて、女神マアトの真実の羽根とで天秤によって比べられ、生前に不正を犯したかどうかを量られます。
棹秤(さおはかり)の発明
天秤は精度は高いですが、分銅を多く使うため重く、持ち運びにも不便でした。ローマ時代には、シルクロードも通じ、交易が盛んになり、それに伴い発明されたのがローマ秤と呼ばれる棹秤でした。これは、てこを応用した秤で、一本の棹と一個の錘(おもり)で、ある一定の重さをはかることができるため、持ち運びに便利で、広く使われました。
中国でも、同じころ、棹秤が考えだされました。
中国の単位、日本の単位
唐の時代になると、重さの単位が変わり、『両(りょう)』の十分の一の重さの『銭(せん)』が使われるようになりました。この銭は、『開元通宝』と呼ばれる銭貨の重さを基準にしたものです。
日本では、この唐の制度をそのまま借用して重さの単位にしています。しかし、唐の官制の『銖(しゅ)・両・斤(きん)』のうち、銖・両は匁(もんめ)・貫(かん)に代わりました。
匁は一文銭(いちもんせん)の目方を基準にしており、貫は一文銭1000枚を紐で貫いてまとめた重さをいいます。
計量の歴史(日本)
分銅
江戸時代、分銅の製作及び取り締まりは、金座と後藤家に任されていました。
後藤家は元来金工の家で、この後藤家がいつごろから分銅を扱うようになったかは分かりません。ただ、後藤家が統一的に扱うことを命じられたのは、たぶん江戸時代初期のことと思われます。
後藤家は江戸のほか、京都と大阪に分銅改所(ふんどうあらためしょ)を設置しており、たとえ目方が狂っていなくても、後藤家の極印(ごくいん)のない分銅は使うことが出来ませんでした。そこで、分銅はすべてここへ持って行って調べてもらい、極印代を払って使わなければなりませんでした。
これは、幕府が度量衡(どりょうこう)の制度の体制を整える政策として、行ったものと思われます。
秤
天秤が公正さをはかる神聖な秤として扱われるのに対し、棹秤は低く見られてごまかしの道具のようにも扱われることも多かったようです。
これは、天秤が貴重品や宝石などの、比較的高級な分野に使われたのに対し、棹秤は食料品や日用品などの庶民的なものを量るのに使われていたことからきているようです。
また、棹秤は構造的に重さをごまかしやすかったということも、その理由のひとつでした。例えば、紐をねじった状態で支えたり、小指で棹を押さえたりして、水平になったようにごまかします。
秤座
秤座の発生について、詳しいことはわかっていません。しかし、全国的に統制される以前には、各地方の権力者のもとや商人仲間の間で、秤の製作を行っていた集団が、座に発展したものと思われます。そして、これらを掌握し、権力を握るものとして、しばしば武士が任命されました。
江戸時代には、幕府が秤の統制のため、東西に秤座を設けました。東(江戸)は守随(しゅずい)家、西(京都)は神(じん)家にその特権を与え、経済的支配の体制をうちたてました。
秤座は、秤の製作だけでなく、修理及び販売の事業をも独占していました。そして、つねに重さの基準を統制するため、定期的に『秤改(はかりあらため)』を実施していました。また、秤の価格も幕府によって定められ、構造の改良、工夫も許されなかったので、日本の秤の技術的進歩は、明治時代を待たなければなりませんでした。
秤改(はかりあらため)
江戸時代の初め、どんな秤でも秤座の許可を受ければ使用が許されていました。許可のない秤は悪秤(わるばかり)として、没収摘発されました。また、後年には、取り締りが厳しくなり、秤座以外で製作された秤は偽秤(にせばかり)として作ることはもとより使うだけでも死罪とされていました。
そして、悪秤・偽秤を取り締まるために、秤改が行われるようになりました。江戸・京都では、定期的に行われましたが、地方では、ひとつの場所が終われば次の場所へ移るといった方法で、国中を一巡するといったものでした。
秤改の一行は、各地に到着すると幕を張り巡らし、改所を設けると、そこに秤を持参させました。検査された秤のうち、目方を正しくはかれるものは「改極印(あらためごくいん」を打って渡し、修理・取り替えの必要のあるものは預かり、改め終わった後、返されました。
秤改は7、8年から20年に1回くらいの割合で行われましたが、悪いものは没収され、手数料・修理費などを払わなければならなかったので、貧しい農民にとっては苦しい制度であったと思われます。
秤改の時に打たれた極印は、その時々で形が異なっていたため、それぞれの極印の形によってその秤の使われた時代を判断することができます。
計量の歴史(近代から現代)
明治時代の秤事情
江戸幕府の重量の計測に対する政策は、前述したとおり保守的であったため、改良、工夫がいっさい許されなかったばかりでなく、商業以外の分野にほとんど配慮がされていなかったため、科学の発達に大きく影響しました。
しかし、幕府や各藩が洋式火兵や艦船、航海技術を導入するようになると、西洋の技術に関する知識が取り入れられるようになります。これとともに、西洋の秤も取り入れられるようになりました。
明治の度量衡(どりょうこう)
明治維新によって秤座はなくなり、西洋技術の導入にともない、西洋の単位が取り入れられます。明治8年(1875年)、政府は匁の重さを『グラム』を基準として定め、西洋式の秤の製作、使用を認めました。この年にパリではメートル条約が結ばれます。
明治19年(1886年)には、日本もこれに加入し、明治24年(1891年)にはメートル原器、キログラム原器を中心にした『度量衡(どりょうこう)法』が制定されました。
この時はじめて1貫は3.75キログラムと決められ、1匁は3.75グラムと確定しましたが、これは、従来よりも、わずかに軽くなったようです。
しかし、単位はまだ『尺貫(しゃくかん)法』が主で、メートル法が認められているほか、ヤードポンド法も認めることとなったため、日本には三つの系統の単位が使われる状態になりました。
そこで大正10年(1921年)、メートル法のみを認めることに改められましたが、これが完成するには昭和34年まで待たなければなりませんでした。
計量法の制定、改正
戦後の経済的混乱は、政府の統政策にも関わらず、全国的な闇市場化をもたらし、政府の単位統一を進める力も弱まっており、闇市場では急速に尺貫法を復活していった。
このような情勢の中で、度量衡の秩序を取り戻すべく度量衡法改正の必要が、関係者の間で語られるようになり、昭和26年に計量法が制定されました。
計量法は、度量衡法と異なり、電磁気及び放射線関係を除き商業用工業用いずれを問わず、当時一般に計測されている物象量を対象としたため、名称も計量法となったのです。
その後、昭和41年の改正では、「法体系の合理化・簡素化、消費者保護を主眼とした適正計量の確保、電気測定法と計量法の統一」が行われ、次いで「計量器の規制の見直し、計量標準認証制度(トレーサビリティ制度)の創設、計量単位への国際単位系(SI)の全面導入」を骨格とした改正が、平成5年11月1日より施行されました。