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ハンセン病問題を理解するために (ハンセン病回復者の被害と名誉の回復を目指して)
このカテゴリで使用している言葉について
1)「癩」「らい」について
ハンセン病は、かつて「らい」あるいは「らい病」と呼ばれていました。1996(平成8)年「らい予防法」が廃止されたとき、それまで「らい」に付加され続けてきた悪いイメージをすべて解消するという意味から、「ハンセン病」と呼ぶよう改められました。
医学用語、法律用語、歴史的用語として使用されている「癩」「らい」は、そのまま使用し、他は「ハンセン病」としました。
2)呼称について
- ハンセン病回復者
かつて、ハンセン病になり、治った人(「入所者」「退所者」「非入所者」の総称) - 入所者
ハンセン病療養所に入所している人 - 退所者
ハンセン病療養所に入所した経験があり、療養所を退所し、地域社会で生活している人 - 非入所者
療養所入所歴のない人 - 社会復帰
ハンセン病療養所を退所して、地域社会で暮らすこと
はじめに
2001(平成13)年5月11日、熊本地方裁判所(以下「熊本地裁」)において、「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」(以下「ハンセン病国賠訴訟」)の判決が言い渡されました。この判決は、国によって行われてきたハンセン病対策が「誤っていた」ことを認めるものでした。
また、2019(令和元)年6月28日、熊本地裁における「ハンセン病家族国家賠償請求訴訟」において、国の責任と賠償を求めた判決が出され、家族もまた、隔離政策の被害者であることが明らかとなりました。
1907(明治40)年に「癩予防ニ関スル件」が制定され「らい予防法」が1996(平成8)年に廃止されるまでの89年もの間、国は患者の強制隔離収容を基本としたハンセン病対策を継続し、ハンセン病患者・家族の人権は無視され、多くの「人生被害」を生み出してきました。
そして、こうした法律に基づいて、患者を強制的に療養所へ送り込んだのは、大阪府も含めた都道府県であり、患者の情報を提供したのは、市町村や地域住民でした。
このように、国、地方自治体、住民は、共同してハンセン病患者を強制的に療養所へ送り込む、いわゆる「無癩(らい)県運動」を戦前・戦後にわたって展開し、ハンセン病患者やその家族の方々に大きな苦痛と苦難を強いてきたのです。
現在、国や地方自治体は、これまでの反省を踏まえ、ハンセン病に対する正しい理解のための啓発を行うとともに、入所者の方が生まれ育った地域に帰るための「里帰り事業」の充実、「社会復帰」のための支援、地域で暮らすハンセン病回復者の支援等に取り組んでいます。
こうした啓発や支援を進めていくためには、行政はもちろん、私たち一人ひとりがハンセン病隔離政策を学び、それぞれの方の希望や人権を尊重しながら、ともに社会で生活するという視点と地域住民の支援や協力が必要です。
また、偏見や差別への不安から故郷に帰ることができず、これからも療養所に在園せざるを得ない入所者が故郷との絆を絶やすことのないよう、さまざまな交流の事業にも取り組む必要があります。
これまで非人道的な扱いをされてきたハンセン病回復者や家族の名誉を回復し、偏見と差別を解消するために、私たちはハンセン病という病気そのものだけでなく、その歴史的背景を理解しなければなりません。
ハンセン病問題について正しく理解することは、一人ひとりが人権について考えていくうえで、今後の重要な指針となります。
ハンセン病とは
ハンセン病は、らい菌によっておこされる慢性細菌感染症です。
らい菌の病原性は弱く、仮に感染しても、らい菌に対してだけ特異的に防御免疫が働かない特別な場合を除いて、発病することはありません。
ハンセン病の症状は、主に末梢神経と皮膚にあらわれ、進行すると運動麻痺による顔面や手足の変形がおこります。
しかし、現在は有効な治療薬があり、発病した場合でも、早期に適切に治療することにより障がいを残すことなく治るようになりました。
ハンセン病は感染症の一つですが、絶対的な隔離を必要とする病気ではありません。
それではなぜ、ハンセン病にかかった人を厳しい隔離に追い込んでしまったのでしょうか。
それは、国による隔離政策と「無癩(らい)県運動」が偏見・差別を助長し、社会全体が、ハンセン病を「恐ろしい病気」と誤解してしまったからだと考えられます。
ハンセン病はなぜ偏見・差別にさらされたのか
第一の理由は、国が法律に基づく隔離政策を推進したことです。
このことが、ハンセン病は「強制的に隔離をしなくてはいけないほど、強い感染力を持つ恐ろしい病気」という誤ったイメージを社会に与えてしまいました。
第二の理由は、古くからこの病気に対して積み重ねられてきた偏見、すなわち社会的な要因です。宗教上の概念から「天刑病」(天が下す刑罰としての病)「業病」(悪業の結果として受ける病)などと言われていたことも、この病気に対するイメージを否定的なものとしてしまいました。
第三の理由は、病気自体がもつ要因です。ハンセン病の症状は皮膚や末梢神経にあらわれ、進行すると運動麻痺により、顔面や手足などの見えるところに変形がおこります。
また、家族内に病気が現れることがあったため、19世紀末に“らい菌”が発見されるまで遺伝すると誤って認識されていました。
これらの誤った情報による偏見・差別が、患者本人のみならず、家族・親族にまでおよび、離婚・破談・転居を余儀なくされました。
何よりも大切なのは、変形や障がいが生じる疾患や遺伝性疾患だからといって差別することは許されないということです。
日本のハンセン病対策
1873(明治6)年、ノルウェーの医学者アルマウェル・ハンセンが、らい菌を発見しました。その後、1897(明治30)年に「第1回国際癩会議」(ベルリン)が開催され、「ハンセン病はらい菌による感染症である」ことが国際的に確立されました。しかし、日本では、それまでいわれていた「遺伝病」説が完全に消えることはなく、その上に「感染する」という概念も加わり、社会に広まっていきました。そしてハンセン病患者は、家庭や故郷から追い出され、放浪生活を余儀なくされました。
社会で、必要以上に「ハンセン病は感染症である」ということが強調され、「患者を隔離することによってのみ社会が救われる」という考えのもとで、国は法律をつくり、対策を進めました。
1931(昭和6)年には「癩予防法」が制定され、隔離の対象は、それまで街中を放浪していたハンセン病患者から、自宅で暮らしている患者も含めた全患者に拡大し、「絶対終生隔離」へとエスカレートしました。
このような社会防衛的な考え方は、その後、「民族浄化」思想と相まって、官民一体の“癩を根滅しよう”とする「無癩(らい)県運動」へと発展していきました。
1943(昭和18)年には、プロミンという薬が、ハンセン病の治療に有効であることがアメリカ合衆国で報告されました。
プロミンは、日本でも独自に開発が進められ、1949(昭和24)年、全国の療養所で治療に使われるようになりました。ハンセン病はもともと自然治癒することもありましたが、プロミンによる治療により、よく治るようになりました。しかし、日本では、その後も隔離政策を続けました。
療養所に収容されると、現金は園内通用券(療養所内だけで通用する貨幣)に替えられました。また、園名(本名とは別の名前)を名乗るよう半ば強制され、解剖承諾書を書かされるなど、これからは隔離収容された人生だということを自覚させられました。なかには、収容時に消毒液の入った“消毒風呂”に入れられた人もいました。
入所者は、「患者作業」(重症患者の看護・建設労働・火葬場の仕事等)を強いられ、その結果、体力を消耗し、手足に傷をつくることで、重い後遺症を残した人も多くいました。
外出・退所は厳しく制限され、手紙の開封・検閲も行われていました。また、国は、療養所所長に懲戒検束権(刑罰・自由の拘束の権限)を与え(1916(大正5)年)、各療養所に監房を設置しました。
残された家族も、教育、結婚、就職をはじめ生活のあらゆる局面で偏見と差別に苦しめられました。
こうした政策に対し、1951(昭和26)年に、入所者たちは自分たちの自治組織を結成し、国会陳情、ハンスト、デモ、座り込みなどを行い、命がけで法の改廃に向けて闘いました(「らい予防法」闘争)。
しかし、1953(昭和28)年、新たに「らい予防法」が制定され、隔離政策は続きました。その結果、1956(昭和31)年の全国の療養所入所者数は、12,055人になりました。
「らい予防法」廃止以後
1996(平成8)年4月1日、「らい予防法」が廃止され、「らい予防法の廃止に関する法律」が制定されました。この法律には、「らい予防法」を廃止することはもちろん、ハンセン病療養所の入所者に対し国が行っている医療・福祉・生活の保障をこれからも維持・継続することが明記されています。
しかし、国は隔離政策の誤りに対する謝罪はしませんでした。
また、その後の政策をみても「らい予防法」廃止後の最重要課題であるはずの入所者の社会復帰に関しては、ほとんど施策として位置付けられず、積極的な支援は進まない状態でした。
こうしたことに不信を抱いた13人の入所者が1998(平成10)年7月31日、「らい予防法」の違憲性を問うハンセン病国賠訴訟を熊本地裁におこしました。熊本地裁(西日本訴訟)のみで争われていた裁判は、さらに、東京地方裁判所(以下「東京地裁」)(東日本訴訟)、岡山地方裁判所(以下「岡山地裁」)(瀬戸内訴訟)へと拡大し、最終的には、2,322人が原告となり3か所の訴訟に発展しました。
裁判の結果、審理が先行していた熊本地裁において、2001(平成13)年5月11日、原告側の主張をほぼ全面的に認めた判決が出されました。
これに対し、国は5月23日に控訴を断念し、ハンセン病国賠訴訟の熊本地裁判決が確定しました。東京地裁、岡山地裁もこれに続きました。
そして、6月22日に、「ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律」(以下「ハンセン病補償法」)が制定され、金銭補償と名誉回復や、福祉対策の向上を国の責任で行うことなどが盛り込まれました。
その後、毎年定期的に、ハンセン病問題の全面解決に向けて、国と統一交渉団(全国ハンセン病療養所入所者協議会・ハンセン病国賠訴訟全国原告団協議会・ハンセン病国賠訴訟全国弁護団連絡会)で話し合いが行われています。
また、2006(平成18)年2月10日、「ハンセン病補償法」の一部が改正され、1945(昭和20)年8月15日までの間に、韓国・台湾など国外のハンセン病療養所に入所していた方も、新たに補償金等の対象となりました。
2009(平成21)年4月には、国の誤った強制隔離政策によるハンセン病回復者等の被害の回復を目的として「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」(通称・「ハンセン病問題基本法」)が施行されました。
ハンセン病回復者等が地域社会から孤立することなく、良好かつ平穏な生活を営むことができるようにするための基盤整備や偏見と差別のない社会の実現、福祉の増進、名誉の回復等のための措置を講ずることについて、国や地方公共団体の責務が明記されました。
国・都道府県は、2008(平成20)年まで、貞明皇后(大正天皇の皇后)の誕生日(6月25日)前後1週間を「ハンセン病を正しく理解する週間」として取り組んできましたが、「ハンセン病補償法」が制定された6月22日を2009(平成21)年から「らい予防法による被害者の名誉回復と追悼の日」とし、追悼と名誉回復の取り組みを実施しています。
2011(平成23)年には、厚生労働省前に「らい予防法による被害者の名誉回復及び追悼の碑」を建立し、毎年追悼行事が行われています。
2015(平成27)年10月1日、退所者遺族への支援として、「ハンセン病問題基本法」の一部が改正され、退所者給与金受給者の死亡後に、配偶者等に対する経済的支援を行うための「特定配偶者等支援金制度」が実施されました。
家族が受けた被害については、ハンセン病国賠訴訟判決後の和解交渉においても国は責任を認めていないため、2016(平成28)年に568人の家族が原告となり熊本地裁に「違憲国家賠償請求訴訟」を提訴しました。2019(令和元)年6月28日、国の責任と賠償を求めた判決が出され、家族もまた、隔離政策の被害者であることが明らかとなりました。
これに対し、国は7月9日に控訴断念を表明し、7月12日には「家族を対象とした新たな補償の措置を講ずることとし、患者・元患者やそれらの家族がおかれていた境遇を踏まえた人権啓発、人権教育などの普及啓発活動に取り組みます」との内閣総理大臣談話を発表しました。
そして、11月22日には、「ハンセン病問題基本法」の対象に家族を加える改正が行われ、「ハンセン病元患者家族に対する補償金の支給等に関する法律」が公布・施行されました。法律の前文では、ハンセン病の隔離政策の下、偏見と差別の中で、ハンセン病元患者との間で望んでいた家族関係を形成することが困難になる等長年にわたり多大の苦痛と苦難を強いられてきたにもかかわらず、その問題の重大性が認識されないまま、国会及び政府においてこれに対する取組がなされてこなかったことへの悔悟と反省の念を込めて深刻に受け止め、深くおわびする旨が明記されています。
これを受けて国や地方公共団体は回復者やその家族に対する偏見・差別の解消にむけて人権啓発・人権教育の施策を実施することが求められています。
ハンセン病回復者の現状
「らい予防法」廃止以後、全国を回ってハンセン病問題について差別の歴史や自らの体験を語り伝えるハンセン病回復者が増えています。
また、社会復帰者の中には、地域で安心して暮らせるよう、学校や医療関係者、福祉従事者などを対象に啓発活動を続けている方もおられます。
しかし、偏見・差別の解消を目的とした回復者の活動が、家族・親族の理解を得られず、最も望んでいた故郷での講演を断念せざるを得なくなるなど、課題も浮き彫りとなっています。ハンセン病回復者の家族・親族も同じように偏見・差別を受けており、被害は今も深刻です。
2003(平成15)年11月には、「里帰り事業」において、熊本県内の宿泊施設が「乳幼児に感染の恐れがある」「他の宿泊客に考慮して」などの理由で、入所者の宿泊を拒否するといった事件が発生し、大きな社会問題となりました。
また、教育現場では2013(平成25)年、ある県の小学校でハンセン病問題の学習を受けた児童がハンセン病に対して「こわい病気」など誤解した感想文を書いたという出来事がありました。
多くの退所者は、根強い差別が残るなかで医療・介護の従事者や近隣の住人や家族にまでも自分の病歴を明かすことができない苦痛を抱えながら、社会生活を送っています。
また、非入所者の中にも、自分の病歴の発覚を恐れ、医療機関で適切な治療を受けることなく、後遺症を重篤化させた方もおられ、退所者と同じ不安を抱えながら暮らしている方も多くいます。
このように、わが国の社会には、まだハンセン病に対する偏見・差別が残っていることは明らかです。偏見・差別を払拭するためには、より一層、ハンセン病問題への理解を深めるための啓発が必要です。
子どもたちにハンセン病問題を伝えていく教師にも正しく理解していただく必要があります。
大阪おけるハンセン病の歴史
外島保養院・・・大阪にあった療養所
かつて(1909(明治42)年から1934(昭和9)年まで)、大阪府にもハンセン病療養所がありました。
現在の大阪市西淀川区中島2丁目付近にあたる場所に近畿等の2府10県(大阪、京都、兵庫、奈良、三重、滋賀、和歌山、福井、石川、富山、岐阜、鳥取)が協力し、公立のハンセン病療養所「第三区連合府県立外島保養院」(以下「外島保養院」定員300人 大阪府主管)を隔離収容施設として、1907(明治40)年法律第11号「癩予防ニ関スル件」に基づき、1909(明治42)年4月に開設しました。
外島保養院があった場所は、現在でこそ治水が完全に行われていますが、当時は海抜ゼロメートル地帯で療養する環境としては厳しい立地条件でした。
当時、増加していた収容人数に対応するため、何度か他の場所への移転計画が出されましたが、その度に移転先の地元住民の反対があり移転は断念せざるを得なくなりました。
結局、現地で増築することになり、1,000人を収容する大施設への工事が進められました。工事がほぼ完成する1934(昭和9)年9月21日、室戸台風の直撃により、暴風雨や高潮等で施設が壊滅、一瞬にして196人(入所者173人、職員3人、職員家族11人、施設拡張工事関係者9人)の命がうばわれてしまいました。
その後、移転が再度検討されましたが、その都度住民の反対により候補地が決まらず、1938(昭和13)年、岡山県邑久郡(現在は岡山県瀬戸内市)の長島に、当初「光明園」として再興され、1941(昭和16)年、国に移管され「国立療養所邑久光明園」と改称しました。
現在、外島保養院の跡地付近には、1997(平成9)年に国立療養所邑久光明園入園(所)者自治会により「らい予防法」廃止の記念事業として記念碑が建立され、毎年9月に、関係者による犠牲者追悼行事が行われています。
さらに外島保養院の歴史をのこし、ハンセン病問題の全面解決と再発防止のための取り組みを行おうと「外島保養院の歴史をのこす会」が邑久光明園入所者自治会をはじめ関係者や市民が中心となり2014(平成26)年に設立されました。
また、1940(昭和15)年、「柴島(くにじま)健康相談所」という一時救護施設が東淀川区柴島に設けられました。療養所へ送られる人は、一時、「柴島健康相談所」へ集められ、ここから療養所へ収容されました。
この救護所は、新規患者の少なくなった1970(昭和45)年頃から1987(昭和62)年頃まで、療養所入所者が大阪へ旅行や用事で来た時の宿泊施設として利用されていました。「柴島健康相談所」は、利用者の減少によって1992(平成4)年に閉鎖されました。
大阪大学医学部附属病院「皮膚科別館」
現在の大阪大学医学部附属病院には、明治の末から皮華科(ひかか・現在の皮膚科)の中にハンセン病の専門外来がありました。昭和の初期、この専門外来は、皮膚科とは別に建物が建てられ「皮膚科別館」と呼ばれていました。ハンセン病と診断された患者には、こちらを通じて療養所へ送致された方もたくさんいました。
戦後の「らい予防法」による厳しい取り締まりのなかでも外来治療が行われていましたが、ハンセン病治療薬は保険適応されず、全額自己負担であったため、療養所に入所せざるを得ない方もいました。
1993(平成5)年の病院移転に伴い「皮膚科別館」は閉鎖され、皮膚科がハンセン病の外来診療を担当し、ハンセン病が治って療養所を退所し、大阪近郊で生活する人びとの診療も行っています。
ハンセン病療養所の現状
ハンセン病療養所は、隔絶された離島や辺境の地に設置されました。
今なお、北は青森県から南は沖縄県まで、国立13、私立1、計14のハンセン病療養所があり、医療施設を中心に、居住棟、売店、理・美容室、郵便局、公会堂、宗教施設、葬儀場、納骨堂などが建てられています。
療養所の中には、火葬場が残されて使用されている所もあります。
2019(令和元)年5月1日現在、ハンセン病療養所には、1,215人(国立1,211人、私立4人)が生活をしています。
これらの人たちは、既にハンセン病は治っています。
しかし、いまだに偏見や差別が社会に根強くあり、親族との断絶や断種・堕胎を強要されたことによって入所者の多くは身寄りがなく、また、後遺症等による身体障がいや高齢などにより、故郷に戻れず療養所での生活を余儀なくされ、亡くなり遺骨になってさえも故郷に帰れない状況が続いています。療養所内の納骨堂に収められているのは16,719柱(2019年6月現在)で、療養所でお亡くなりになった方の6割を超えます。入所者の方々は、平均年齢が85歳を超えた今、ますます望郷の念を強くされています。
現在の療養所では、入所者が減少していく中でも、入所者が安心して生活できるよう、医師・看護師・介護員の確保や、療養所の将来構想として、退所者や地域住民の外来診療の実施、民間の保育園や社会福祉施設の設置、歴史的建造物等の保存、人権学習の場としての社会交流会館の設置・活用などに取り組んでいます。
おわりに
病気で苦しむ人を社会から排除し、人びとの関心の外に置くことは、偏見や差別を生むことにつながってしまいます。変形や障がいが生じる疾患を差別することは絶対にあってはならないし、どんな病気であっても患者やその家族の人権は守られなければなりません。
現在、入所者の平均年齢は85歳を超えており、残された時間は決して長くはありません。既に多くの方が、2001(平成13)年5月の熊本地裁判決を待たずして療養所で生涯を終えられています(全国の療養所で亡くなられた方:2019(令和元)年6月1日現在で27,119人)。
日本のハンセン病対策の誤りは私たちに大きな教訓を残しました。
二度とこのような過ちを繰り返さないよう、一人ひとりが何をしなければならないか、真摯に考えていく必要があります。
大阪府では、これからも、療養所入所者の「里帰り事業」の充実や社会復帰に向けた施策や地域で暮らすハンセン病回復者と家族のさまざまな相談支援にも取り組み、地域で安心して暮らし続けられるよう支援を行っていきます。
また、研修・啓発事業によりハンセン病問題を伝えることで、偏見や差別の解消を図っていきます。