更新日:2009年7月22日
ページID:29102
ここから本文です。
府議会のあゆみ
- 慶応4年(1868年)の5月、大阪裁判所(現在の司法裁判所ではなく、行政一般を司る役所)を改め、大阪府が設置されました。
その後、明治6年(1873年)11月に区戸長を議員とした府会が開設されましたが、実際は区戸長会的なもので、大阪府の行政について諮問機関の役割を果たした任意的な会合に過ぎないものでした。
- 明治11年(1878年)7月に太政官布告として、郡区町村編制法、府県会規則、地方税規則の3規程が公布され、この府県会規則に基づき大阪府会が組織されました。
これが大阪府議会の始まりで、翌年の明治12年(1879年)3月に初めての府会議員選挙が行われ、当時の大阪府の管轄であった大阪市街4区(東区、西区、南区、北区)、摂津国7郡(東成郡、住吉郡、西成郡、島上郡、島下郡、豊島郡、能勢郡)の11選挙区から34人の議員が選出されました。
同年4月28日、三津寺(みつてら)の本堂を仮議場として第1回大阪府会の開会式が行われ、5月1日からは本願寺津村別院(ほんがんじつむらべついん。通称、北御堂(きたみどう))に仮議場を移し、審議が続けられました。
三津寺(みつてら)本堂
本願寺津村別院
(ほんがんじつむらべついん)
- 明治14年(1881年)2月、半数改選と同時に郡区議員が20人となり、総計40人となりました。堺県でも明治12年(1879年)6月より県会が開かれていましたが、明治14年(1881年)2月に堺県が廃止され大阪府の管轄となったため、堺県会も大阪府会に併合され、議員定数は80人となりました。同年、市部と郡部とでは種々の点で事情が異なるとの理由から、東京・京都・大阪の3府(当時、東京は「都」ではなく「府」であった。)と神奈川県に限り、地方税に関して府県全域と市部、郡部の経済・予算を分離する三部制が実施されることとなり、大阪府会に「市部会」と「郡部会」を設置することとなりました。
- 明治15年(1882年)3月、西区西道頓堀(現在のJR難波駅の北側)に本格的な議事堂が築造されましたが、明治25年(1892年)3月の議会開会中に火災により焼失しました。このため、明治26年(1893年)西区江之子島(えのこじま)にあった2代目大阪府庁舎の横に議事堂が移築されました。
- 明治22年(1889年)に大日本帝国憲法が公布され、これに続いて帝国議会が開設されました。これを前後として市町村制、府県制と郡制が公布されました。
その後、明治32年(1899年)に府県制の大改正が行われ、大阪府はそれまでの国の行政区割としての一面に加え法人格を持つ地方自治体として存在することになり、これに伴い大阪府会も自治機関における地方議会へと変貌を遂げました。
なお、この基本構造は、昭和20年(1945年)の終戦まで維持されました。 - 大正14年(1925年)、文化・交通の発達等に伴い市部と郡部の経済的、地理的障害がしだいに取り除かれてきたため、府予算の三部制(府全域と市部、郡部の予算分離)が廃止されました。このため大阪府会の市部会、郡部会が消滅し、大阪府会が一元化されました。
江之子島(えのこじま)大阪府庁舎
明治7年7月から大正15年10月
江之子島(えのこじま)旧議事堂
明治26年10月から大正15年10月
- 大正15年(1926年)10月、現在の3代目大阪府庁舎が完成し、議事堂も大阪府庁舎の2階部分に移転されました。大阪府議会では現在もこの議事堂を使用しており、全国の都道府県の中で最も古い議事堂となっています(ちなみに、国会議事堂の完成は昭和11年11月です。)。
また、この当時は、15選挙区から58人の議員が選出されていました。 - 昭和2年(1927年)9月、一定の納税額や財産の所有などが要件となっていた制限選挙から普通選挙による初めての府会議員選挙が実施され、65人の議員が選出されました。
しかし、普通選挙とはいっても、女性への参政権はまだ認められていませんでした。 - 昭和22年(1947年)4月、日本国憲法施行に伴い新たに制定された地方自治法による最初の府議会議員選挙(女性への参政権が認められた最初の選挙)が行われ、36選挙区から74人の議員が選出されました。
この時、名称も大阪府会から大阪府議会となりました。なお、大阪府議会では、長年の慣行により昭和35年(1960年)頃まで大阪府会の名称を使用していました。
現大阪府庁舎
大正15年10月竣工時
以後、人口の増加と新市の施行、市町村の合併及び分区、合区の変遷があり、現在53選挙区から79人の議員が選ばれています。