わたしがこの本をえらんだのは「じつは、わたしにしょうがいがあるのは、あなたのせいなのです。そう言ったら、おどろきますか。」というおびが気になったからです。
作しゃは生まれつき体のきん肉がだんだん弱くなっていくびょう気で、車いすと人工こきゅうきを使っているえび原ひろみさんという方です。この本を読んだ感想は三つあります。
一つ目は「そんげんし」についてです。そんげんしとは、なおる見こみのない人が自分でしをえらぶ事です。えび原さんは、心のそこからしにたいと思っている人なんてぜったいにいないと言います。人のめいわくになるから、とえんりょしつづけることにきたいが持てなくなっているのだ、と書いてありました。
わたしは生まれた時ほかの赤ちゃんより小さく、人工こきゅうきを使っていました。もし今も使っていたら、入れないお店や通えない学校があったかもしれません。それを思うととてもかなしいです。しをえらんでいるのではなく、えらばされているのかもと思いました。もしこの本を読んでいなかったら、しなせてあげるのもその人のため、と思っていたと思います。
二つ目は、手だすけについてです。えび原さんは学校ではクラスメイトがサポートしていました。友だちに毎日おねがいしないといけないのは気をつかうし、たのまれる方も大へんだったのではと思いました。学校でもヘルパーさんに来てもらえるようになったら安心だろうなと思います。
三つ目は、しょうがいについてです。びょう気である事としょうがいがあることはべつのことで、たとえばたて物に入れないのは、車いすだから入れないのではなく、かいだんしかないから入れないのであって、たて物のつくりがちゃんとしていれば、車いすはしょうがいではなくなる、しょうがいはなくせると書かれていて、その考え方がうれしかったです。なぜならわたしの母も車いすにのっていて、わたしもそう思っていたからです。
わたしは、四月に東京から大阪に引っこして来ました。理由は、母のヘルパーさんが半分い上来れなくなってしまい東京での生活が出来なくなったからです。三月の終わりに、小学校をてん校しないといけないと聞いてすごくショックでした。父は仕事で東京にのこっているので四月からははなれて生活しています。
この本を読んで、しょうがいのある人やその家ぞくが何かをあきらめなくてはならない、という思いをするのは、わたしでさい後になってほしいと思いました。そして、どこに住んでいてもひつような人がひつような分サポートをうけられるようになってほしいと思います。
『わたしが障害者じゃなくなる日』
著 海老原 宏美
旬報社
このページの作成所属
府民文化部 人権局人権企画課 教育・啓発グループ
ここまで本文です。