人権学習シリーズ わたしを生きる 名まえ、それぞれの選択/資料2 日本で暮らす外国にルーツがある高校生たちの話

更新日:2016年2月12日

「名まえ、それぞれの選択」(めやす90分)

資料2 日本で暮らす外国にルーツがある高校生たちの話

この話は、実話をもとに再構成しています。

ベトナム人高校生 木村美香さん
わたしはベトナム人です。両親がベトナムでの迫害をおそれ、小舟で日本に渡ってきたそうです。※1わたしは日本で生まれました。両親は日本語がそれほど、うまくありません。家では、両親はベトナム語で話します。わたしは、ベトナム語は聞きとれますが、話すのは苦手で、日常は日本語です。
中学までは、地元の学校でした。ベトナムの名前で、「グェン ティ ゴック」というベトナム名を名のっていました。学校では時々、名前をからかわれることもありました。高校は、地元から離れた学校に進学しました。高校からは、「木村美香」という日本名で通うことにしました。ベトナム人であることは仲のいい人だけに言っています。
在日コリアン高校生 朴淑姫(パクスッキ)さん
わたしは、中学生のとき、韓国籍を持っていたことを知りました。 ※2
それまで、自分は「森下恵子」という日本人だと思っていたので、正直始めはショックでした。高校になって、外国人登録をしました。そのとき民族名があるということも知りました。わたしは、そのときから、「朴淑姫(パクスッキ)」という本名を名のることにしました。
中国人高校生 山田翔(しょう)さん
僕は日本で生まれた中国人です。母が中国帰国者※3の孫で、父は中国人です。先に渡日したいとこが、中国名で保育所に通っていたときに、はげしいいじめにあったという話を聞いて、両親は僕を山田翔と日本名をつけて育てました。中国の名前もありますが、日常は山田翔と名のっています。自己紹介などでは僕は中国国籍を持っていることを伝えています。
中国人高校生 劉鈴(リュウリン)さん
わたしは、生まれたときから、「劉鈴(リュウリン)」という本名で生活しています。父が中国帰国者※3の孫で、私が生まれる前に中国から渡ってきました。国籍は中国籍で、家族みんな、中国名で暮らしています。正直、学校で、変な名前とか、帰れとか言われたこともあります。でも、大好きな友人も日本にたくさんいます。生まれたときにつけてもらった名前なので、この名前で生きていきたいです。
父がコリアン、母が日本人の高校生 金冬人(キムふゆと)さん
僕の父は、在日コリアン3世で、母は日本人です。僕は、「金冬人(キムふゆと)」という名前で生きています。金は父のルーツである韓国の名前を、冬人は母のルーツである日本の名前です。僕は、この名前が気にいってます。

※1 1975年、インドシナ三国(ベトナム・ラオス・カンボジア)では相次いで社会主義体制に移行しましたが、新しい体制の下で迫害を受けるおそれのある人々や新体制になじめない人々がボートで海上へ逃れたり(ボート・ピープル)、陸路隣国へ逃れました(ランド・ピープル)。
これらの人々を総称してインドシナ難民といい、その総数は 約144万人に達します。その内約130万人がアジア地域の難民キャンプを経て、また、ボート・ピープルとして、アメリカ・オーストラリア・カナダ・日本などへ定住しました。(財団法人アジア福祉教育財団 難民事業本部 ホームページより)
※2 我が国に多くの韓国・朝鮮人が、住むようになったのは、1910年の韓国併合により日本が朝鮮半島を植民地にしたことによります。
その結果、朝鮮人は日本人とされ、朝鮮の学校では朝鮮語や朝鮮の歴史の授業が禁止されたりしました。加えて、日本人として日本名を名のることが事実上強制されました(「創氏改名」)。
また、「土地調査事業」により、多くの農民は土地を失い、職を求めて日本に渡ってきました。けれども、日本に来た朝鮮人の多くは建設現場、炭坑、紡績工場などで、低い賃金でしか働けませんでした。
第二次世界大戦の勃発により、国内の労働力が大きく不足したため、最初は自由募集の形で、戦争が激化するにつれて国民徴用令により強制的に多くの朝鮮人が日本に連れてこられました。
これらは、日本が戦争で負けるまで続きましたが、敗戦後、日本国籍を持っていた朝鮮人は「外国人」であるとされました。現在の在日韓国・朝鮮人のほとんどは我が国と朝鮮半島をめぐる歴史の中で日本に来ることを余儀なくされた人々とその子孫です。
ところで、在日韓国・朝鮮人が「通称名」を使うのは、法律で強制されているわけではありません。しかし、就職差別や住居差別などの民族差別が現存するなど、差別を回避するために本名を名のれないという状況は残っています。(『動詞からひろがる人権学習』5「名のる」 大阪府教育委員会発行より)
※3 ここでいう中国帰国者とは、中国残留邦人のことをさします。
1945年(昭和20年)当時、中国の東北地方(旧満州地区)には、開拓団など多くの日本人が居住していましたが、同年8月9日のソ連軍の対日参戦により、戦闘に巻き込まれたり、避難中の飢き餓が疾病等により多くの方が犠牲となりました。このような中、肉親と離別して孤児となり中国の養父母に育てられたり、やむなく中国に残ることとなった方々を「中国残留邦人」といいます。(厚生労働省ホームページより)

 

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このページの作成所属
府民文化部 人権局人権企画課 教育・啓発グループ

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